Doctor's Network

"夢をつなぐ" Doctor's Network

J医師のインタビュー

弱視ということですが、視力の状況について教えてください。

もともとの病気は「黄斑変性症」というもので、視野の中心が欠けている状況です。左目は中心に視力がなく、周辺の視野だけが見えている状況です。矯正後の視力で言えば、0.1くらいになります。右目は中心視野がまだ少し残っていて、0.2から0.3くらいの視力があります。周辺は普通に見えますが、一部中心の視野が欠けている状況です。

日常生活にはどのような影響があるのでしょうか。

見え方としては、周辺が見えているので歩行には問題がなく、人とぶつかることもほとんどありません。中心の視野がなくて見にくいので、文庫本のようなものは読むことができません。文章を読もうとすれば、拡大鏡を用いて読むか、パソコン上で画面を拡大して読む必要があります。夜は見にくいので、走ると色々なものにぶつかることがあります。

視力が低下したのは、いつ頃からですか。

小学生の頃から、矯正しても視力が1.0くらいにしかなりませんでした。1.0あれば、読み書きにも問題はなかったのですが、中学生、高校生になるにつれて少しずつ視力が落ちてきました。それでも0.7くらいあったので、運転免許も取れたし、一時期は車の運転もしていました。大学に入ってからは、さらに視力が落ちて0.3から0.4くらいになりました。それまでにも眼科に受診していて、診断はついていなかったのですが、大学の時に初めて黄斑変性症という診断がつきました。

診断がついたのは、医学部在学中だったのですか。

一度、医学部以外の大学に進学し、その後に医学部に入り直したのですが、診断がついたのは医学部に入る少し前のことで、20歳を過ぎた頃でした。

視力が低下してきた中で、当初入学した大学から医学部に入り直すことにしたのは、どのような理由があったのでしょうか。

もともと医学には興味があったのですが、別の理数系の大学でパソコン関係の道に進みました。卒業後の就職を考えたときに、視力が落ちてきたことや仕事の内容を考えると、パソコン関係の仕事は難しいかなと思いました。そのような状況の中で、もともと興味があった医学関係への関心が出てきて、医学関係で何かしら人のためにできることがあるのではと考えたことが、転換のきっかけでした。

色々な方からお話を伺うと、医師というのは他の職種と比べると専門的な判断を求められる仕事なので、身体的な障害があっても比較的に活躍できる場があるようですが、そういう思いも医学部を考える背景にはあったのでしょうか。

そうですね。やはり国家資格のある仕事なので、手に職があるということもあって、視力が若干落ちたとしても、臨床ができるとは限りませんが、何かしら医師としての仕事を続けることが可能だろうとは、考えていました。

そういうことを考える際に、ロールモデルというか、視覚に障害のある方で医師として活躍されている方をご存知だったのですか。

その時は全く知りませんでした。というよりも、医学部を受験する時の視力はまだ0.5くらいはあって、本も普通に読めていて、そんなに困っている状況ではなかったので、そこまで考えていなかったのが正直なところです。

医学部に入るための受験勉強では、視力が低下してきたことで苦労されたことはなかったですか。

その時点ではなかったです。視力が低いなりに、あまり気にせずにできていました。強いていえば、塾などの授業は後ろでは見えないので、前に座るようにしていました。

大学に入って医学部の6年間では、入学時に比べて視力は低下したのでしょうか。

低下しました。特に5年生くらいからです。

5年生だと実習に入る頃ですね。

実習に入る頃から、見にくさが大変になってきたので、拡大鏡を少し使うようになりました。大学側には、試験の際に拡大鏡を用いたり、電気スタンドを試験会場に持ち込むことを認めてもらうなどの配慮をしていただきました。

大学には先例はあったのでしょうか。

なかったと思います。

そうだとすれば、本人からの申し出がないと、大学側もどういう配慮をすれば良いか分からないですね。その点は、自分から話をされていったのでしょうか。

そうですね。それに加えて、大学に入って主治医を大学病院の眼科の先生に変えていたので、主治医の先生によるサポートもあったと思います。同じ大学内なので、話が繋がりやすいことはあったと思います。

試験問題を拡大してもらうことはありましたか。

それも考えましたが、実際はそこまでする必要はありませんでした。大学の試験はマークシートが中心だったので、手元を明るくして拡大鏡さえ使えば対応できるレベルでした。

実習では、何か困ったことはありましたか。

学生でいる間は、勉強にしろ実習にしろ、あまり困ることはなかったです。でも、顕微鏡の実習や外科の実習は見にくいので苦手でした。

医師国家試験に向けた受験勉強は、どうだったでしょうか。

その当時は、拡大鏡も多少は使いますが、よほど細かい文字でなければ普通に読むことはできていたので、国家試験の勉強についてもあまり困ることはなかったです。

中心部が見えなくても、拡大鏡を使えば文字が読めるのですね。

はい。

文字を書くときはどうでしょうか。

拡大鏡で見えているうちは、文字を書くこともできます。今も、書けなくはないです。

拡大鏡では何倍くらいになるのですか。

今使っているものは、3.5倍です。このタイプの拡大鏡は、軽くて小さい上に、集光して文字が明るくなります。仕事では、紙の書類に当てて読むほか、パソコンの文字が小さい時は画面に当てて読んだりしています。

拡大鏡はいつ頃から使っているのですか。

大学5年生頃からです。ただ、当時は常に使うほどでもなかったので、持っていたり、持っていなかったりというレベルでした。

弱視のある方は、皆さん拡大鏡を使われているのでしょうか。弱視のタイプによっては、拡大鏡が効果的な人と使えない人がいるのでしょうか。

弱視の人にも、病気の種類によって色々な見え方があると思います。私の場合は、中心が見えないタイプですが、その中でもまだ見えている方なので、この3.5倍の拡大鏡で対応できています。人によってはもっと拡大しないと見えない人もいるでしょうし、中心ではなく周辺が見えない人や視力ではなく色の違いが分からない人もいます。

白黒反転して見る人もいますが、そういうことはされませんか。

やったりやらなかったりという感じです。眩しさというのは、見やすさに関わっています。明る過ぎると眩しくて疲れてしまって見にくくなり、白黒反転することで目の負担も減り楽になるため、パソコンで文書を見る際には白黒反転することもあります。ただ、ワード文書なら良いのですが、インターネット上のページを変換すると見にくくなることもあるので、基本的には白黒反転せずに見ています。

医師国家試験では、何か配慮をしてもらいましたか。

事前に厚生局に連絡をして、試験の配慮をお願いしました。

具体的には、どのような配慮だったのでしょうか。

拡大鏡と電気スタンドの使用のほか、試験問題の拡大をお願いしました。試験会場については、他の受験者と同じ部屋ですが、一番後ろの席にしてもらい、ライトを点けて受験させてもらいました。

医師国家試験に合格した後は、診療科に進まれるわけですが、診療科については将来のことも考えて選ばれたのでしょうか。

そこは凄く考えました。診療科を選ぶポイントは、自分に興味がある分野かどうかということと、自分が将来的にやっていけるかどうかだと思いました。まず興味という点では、特定の臓器よりも全般的な関心があったので、総合診療的なところに興味がありました。もう一つは、視力が悪いと手技的なものが難しいことは予想できたので、外科系は難しいと思いましたし、読影が必要な放射線科や顕微鏡を使う病理科も難しいと思いました。そうなると、内科か精神科かリハビリ科くらいに限られてしまい、その中から選ぶという感じでしたが、たまたま自分の興味とも合ったので総合診療科を選びました。

初期研修は大学病院で受けられたのですね。

それも理由があって、たまたま総合診療部が大学病院にあったこともありますが、自分の病状のことを在学中から知ってくれていて、母校であることで何か問題があった時にも対応してもらえる可能性が高いという安心感もあり、母校の大学病院を選びました。

初期研修期間が終わり、医師として働き始めてからは、どのような状況だったのでしょうか。働く上でご苦労されていることはありますか。

初期研修の時に大変だったのは、やはり手技のところです。研修医なので、点滴や採血の針を刺すなどの手技がありますが、当時は視力の方も微妙になってきた時期だったので、できないわけではないのですが、見づらくて大変という状況でした。ただ、視力のことは同僚や上の先生も分かってくれていて、あまり無理せずにできない場合は頼むようにしていたので、精神的な負担になることはなかったです。

手技以外はどうだったでしょうか。

数字を見たり、文字を読んだりするのが大変になってきた時期で、当時はまだ手書きのカルテだったので、カルテを読むのが結構大変でした。もっとも文字の大きさだけではなく、文字のきれいさなど様々な要素がありました。今は電子カルテになっているので、そこは凄く楽になり有難いです。

パソコンの画面上だと拡大もできるし、文字もきれいですね。電子カルテに別のソフトを入れるのは難しいと聞いていますが、文章の読み上げソフトは使わないのですか。

一時期考えたこともあったのですが、ソフトを入れるのが難しいということに加え、電子カルテを使うパソコンも1箇所ではなく、自分がいる場所によって使うパソコンも違ってくるため、自分だけのものを用意してもらうのは難しい面があるので、そこまでしてもらってはいません。

必要に応じて画面上に拡大鏡を当てることで、対応できているということですね。

今の電子カルテには拡大機能がついているので、現在使っている拡大鏡で見る程度にすることはパソコン上でも可能です。Windowsの他のツールを使えば、もっと大きくすることもできると思いますので、読み上げソフトを使わなくても大丈夫かと思います。

採血などの手技はどうされているのですか。

基本は全て頼んでいます。この病院では、医師がしなければならない手技は比較的多いのですが、私も医師として12年目になり、そのくらいになるとあまり自分でやらなくても済んでいます。採血も研修医や若手の先生にお願いしたり、看護師さんにお願いしたりできるので、今はほとんど自分ではやっていません。あと必要になるのは、画像を読むことですが、画像も近くで見れば見えなくはないのですが、自分が不安な時には他の医師に聞いています。この病院には放射線の読影医がいるので、その結果も合わせてダブルチェックで確認することで、自分だけでリスクを負わないようにしています。

大学病院という環境であるから、できている部分があるということですか。

それだからここにいる、ということでしょうか。一時期、他の病院にいたこともあるのですが、比較的大きな病院だったので、そこでもお願いすればできなくはなかったです。ある程度マンパワー的にサポートできる体制がある方が、自分としては働きやすいと思っています。見にくいため看護師さんの顔を覚えるのがなかなか難しいのが、コミュニケーションの上で少し残念ですが。

大学病院だと症例報告や論文を書いたり、文献検索をしたりする機会も多いかと思いますが、そういう時も電子カルテと同様に、パソコン上で拡大して読むことで対応できるのでしょうか。

そうですね。インターネットで論文検索するPubMedなどが普及していなかった時代は、文献を取り寄せて紙で見ることが多かったのですが、今は大部分の論文がインターネットで入手できるし、PDFの論文をパソコン上で拡大することもできるので、弱視でもある程度文字が見えれば、読むスピードの問題はあるかもしれませんが、論文を読むこと自体には支障はないと言えます。読み上げ機能を使えば、より負担は少ないと思います。

情報のアクセスという点では、随分と環境は改善されたのですね。日常生活の中で本を読むような時には、音声機能は活用したりしているのですか。

音声はあまり使っていません。まだ必要がないということと、音声の操作に慣れていないというところです。どうしても読まなければならない文献や教科書は拡大して読みますが、それ以外の本は最近は家ではあまり読まなくなりました。読みたい本は電子書籍で読んでいる感じですが、読む量はすごく減りました。

自分自身で工夫されていることのほか、周りに配慮してもらっているのは、手技と読影以外に何かありますか。

当直を免除してもらっています。一つ目の理由は、自分の健康面の理由からで、当直することの身体的負担が視力の悪化に影響するかもしれないからです。もう一つの理由は。夜間で医師の数が少ない時に自分で対応するリスクを考えて、当直を免除いただいています。その代わり、日中にできる仕事で他の人がやりたがらないような仕事を、できる範囲で割り振ってもらって、カバーする感じにしています。

日中で他の人がやりたがらない仕事とは、どんな仕事ですか。

例えば救急当番とかです。救急当番も自分だけではなく研修医もいるので、彼らが目の代わりになってくれて必要なサポートもしてくれます。以前働いていた病院だと土日が休みだったので、夜の当直はしない代わりに、土日の日勤を担当させてもらいました。今の病院では、当直体制が夜に被ってしまうため、昼だけの勤務はありません。

過労やストレスが目の状態に良くないことがあるのですね。

はっきりとは言われていませんが、その可能性はあるので、主治医からもあまり無理しないように言われています。光についても、今の眼鏡にも遮光が少し入っていて、あまり眩しくないようにしています。

病院というのは壁も白いし、照明も強くて、他の職場に比べて明るいですね。

そうですね、明るいですね。人によって感じ方は違いますが、私の場合は明る過ぎても見にくいですが、あまり暗いと見えにくいです。眼鏡に入っている薄い遮光でも、文字を見ようとすると逆に暗くて見にくいです。

調節が難しそうですね。診察を行う診察室の照明は、調光はできるのでしょうか。

できそうにはないですが、そこまでしなくても私は大丈夫な状況です。ただ、人によっては、例えば網膜色素変性症の人だと眩しさを感じやすく、茶色の遮光眼鏡をかけている人も結構いるので、見え方によってはそうした配慮が必要かもしれません。

網膜色素変性症というのは、どんな状態なのでしょうか。

網膜色素変性症の人は結構いますが、視力の幅もかなりあって、そこそこ見えている方から全盲くらいになってしまう方もいるので、個別的な対応が必要かと思います。

ご自身の今の状態は、安定しているのでしょうか。

徐々に落ちつつも、比較的安定していて、仕事は何とかこなせているという状態です。

今後もこういう状態で安定していくのか、若干低下していくのか分からないわけですが、医師としての将来については、どのように考えていますか。或いは、どのように希望されていますか。

現在の診療内容は、総合診療の中でも特に緩和ケアという分野です。自分の興味があるということと、視力がそれほど必要なくできることも、選んだ理由です。勿論、診察することも必要ですが、苦痛を取るための工夫を考えることと、そのためにどちらかというと話を聞くことが大きかったりするので、そういう意味では、将来視力が低下していってもある程度は続けられるかと思っています。それでも、本当に字が読めない、カルテが読めない状況になったら、多分、もっと助けが必要になってしまうと思います。今は自分で読めていますし、患者さんの顔の様子も、顔色は若干見えなかったりしますが、皮膚科などではないので、診察に影響するほどのものではなく、できる範囲でやっていけると思っています。今後、もし視力が落ちてきて、患者さんの顔も分からなくなったり、カルテが読めなくなったら、その時は本当に考えなければならないと思います。続けられる範囲ではやっていこうとは思っていますが、それが難しくなってきた時には、もう少し教育的な立場とか、臨床の経験を生かしつつ、それ以外の方向から医療に携わっていけたらと思っています。

大学の医局に属されているので、別の病院に異動することもあり得ますが、そういうことも含めて、出身大学なので理解してくれる可能性があるのでしょうが、例えば、一人で開業医としてやっていくのは難しいでしょうか。

一人で開業するとなると、いろいろなサポートが必要となるので、そこは難しいと思っています。大学だとある意味サポート体制もあるので、これからもできる範囲の中で大学にも貢献していければ、居場所は残されるのかと思っています。開業するとなれば、診療のサポート以外に経営のことなども自分で考えないといけないという負担もあります。経営をするのが楽しみになるのであればよいかもしれません。

大学の中で同じように視覚に難しさを抱えている医師の情報はありませんか。

以前、そういう方がいるのではないかと考えて、院内のメッセージで、「もし視力障害の人がいれば、情報共有しましょう」と呼びかけたことがあるのですが、手をあげる人がいませんでした。困っている人はいるのかもしれませんが、情報共有はできていません。

視力の障害というのは、糖尿病などの成人病から生じることもありますよね。結構、そういう方はおられるように思いますが。

私の知っている医師でも一人目が悪い方がいますが、その方なりに臨床をやっていて、大分年配なのであまり深く介入することは控えています。目が悪いという共通の点での情報共有している人は、院内にはいないですね。

近い人には、かえって話しにくいかもしれませんね。「夢をつなぐDoctor’s Network」のような、匿名での情報共有が参考になる人もいるでしょう。この点に関して、現に医師として働いている人の中で、視覚の問題で将来に不安を感じている方に対して、何か伝えたいメッセージがあればお願いします。

私の思いとしては、視力の程度にもよりますが、医師の仕事を続けることはある程度できると思います。ただ、自分のやりたいことができるかというのは、また別問題かと思います。どのような形で自分が医師の仕事を続けたいかにもよりますが、今までの経験があると思うので、そこをどう繋げていくかです。周りのサポートがある程度は得られる環境もあると思うので、そこの環境でやっていけるかどうかにもよりますし、その内容にもよります。本当に視力が低下して全盲くらいになってしまい、カルテも読めなくなってしまった時に、果たしてどこまでやっていけるかですが、この点については「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」の他の先生方の活躍を見ると、苦労されている先生もいますが、それぞれ色々と工夫されたり、診療科を変えたり、サポート体制の工夫、病院組織としての理解などがうまく整えば、医師として働き続ける可能性は十分あると思います。

先ほどのお話では、そういう理解をしてもらうためにも、できる範囲で貢献していくことが大事ということですね。それまでとは違った仕事というのは、どんなものでしょうか。

例えば外科の先生だと、手術はできなくなってしまいますが、そのスキルをどう後輩に伝えていくかという仕事もあるでしょうし、診療をしたければ、内科系とか緩和であれば、手技ができなくてもやれる余地があると思います。方向性は変わってくるかもしれませんが、臨床を続けられる可能性もあると思います。視力の程度によって違うので、そこが難しいところですが、元々専門知識があるのですから、自分の障害の状態の中で生かせるスキルというのは、少し経験すれば他の分野でも色々とできることはあると思います。その場での自分の存在意義を見つけられると、働きやすいかもしれません。

最後に、弱視のある中学生や高校生で、医師を目指して良いか悩まれている皆さんへのメッセージをお願いします。

正直なところ、視力が低下して見にくいと大変だと思います。医学部に入ってからの勉強や実習でも、他の人よりも凄く時間もかかると思うし、卒業するのにも苦労されるとは思います。ただ、今は医師免許について障害を理由とする欠格条項もなくなっていますし、入学試験に合格して、やる気があって、大学側がある程度配慮してくれれば、国家試験さえ合格できれば、道は色々とあると思います。弱視だから医師になれないと、否定的に考える必要はないと思います。むしろ、身体的な障害がある分、患者の気持ちに近づけるメリットがあります。患者の立場に立って考えられる医師は大きな強みです。

進路には色々な道があって、その一つが医療という道だと思いますが、他の道もそれなりに厳しいわけですね。厳しいという点ではどの進路も共通なのでしょうが、その中で医療という道は、厳しいけれども可能性もあるということでしょうか。

確かに他の学部に行っても大変ですね。その意味ではそんなに変わらない。医学部では実習の面にどれだけ影響するかですが、今は手技がそれほどできなくても良くなってきていますし、最近は細かな手技は看護師が行えるように業務範囲も拡大されてきているので、本当に医師が目を使ってやらなければならないことは、減ってきているという感触があります。外科の場合は別ですが。国家資格さえ取れれば、弱視でも働きやすい環境になってきていると言えるでしょう。

何でも一人でやるわけではなくて、補助者も一緒になってやるわけですね。

「チーム医療」なので、自分一人で全部やらなければならないわけではありません。診療科によっては、精神科をはじめ視力をあまり使わなくてもできる科もあります。内科系でも内視鏡を使う消化器内科のように手技が必要な科もありますが、総合診療科では医師が必ずしも手技を行う必要はありません。糖尿病内科やリウマチ膠原病内科などは、あまり目を使わなくても良いかもしれません。そういう意味では、選択肢の幅があると思います。むしろ看護師よりも医師の方が働きやすいかと思います。看護師だと、動かなければならなかったり、観察したりすることも多いので、視力に問題があると医師以上に大変かもしれません。

医師の仕事の本質は、判断することでしょうか。

色々なことを判断して決める仕事ですね。医師の判断は責任が大きいので、その自覚をもってリスクを減らす工夫は心がけなければなりません。必ずしも見えていることが全てではないと思います。情報共有についても、ITの普及により便利になってきているので、今後はもっと文章ではなく音声で情報が得られる時代になっていくと思います。また、大切なのは、職場の関係性、コミュニケーションで、自分のことを知ってもらいながら、お互い協力して医療を行っていくことですね。そういう意味では、医師という仕事も選択肢として持って、目指していく価値があると思います。

本日は有難うございました。

(2020年3月収録)

Hemi医師のインタビュー

最初に発症前のことを教えてください。

大学では産婦人科を選択していました。当時は臨床研修システムがなかったので、大学卒業後にストレートに医局に入局して、周産期センターで産婦人科医として働き始めました。当時はお産の件数も年間1,000件程度と多く、 2日に1回は当直がありました。

この病院には、いつ来られたのですか。

卒後3年目の2000年にこの病院の産婦人科に来ました。この病院の婦人科は腫瘍の患者さんが多いので、婦人科のがん専門医を目指していました。

脳出血が起きたのはいつですか。

2010年8月に脳幹出血(左の橋出血)があって、自分が勤務しているこの病院に入院しました。前日は朝から4件の手術があって、最後の卵巣がんの手術が終わったのは夜の11時頃でした。2〜3日前からずっと頭が痛かったのですが、次の日の朝起きたら、右手が動かず、病院に行って、脳外科の先生に「手も動かないし頭も痛い」と話したら、MRとCTを撮ってくれました。検査の結果、脳幹出血があるが腫瘍ではないとの説明があり、即入院しましたが、あっという間に右半身に麻痺が拡がりました。

視覚はどうでしたか。

目は複視になりました。外転神経の障害で眼球運動が阻害され、全てが二重に見えました。この症状が一番辛かったです。あと顔面神経麻痺、構音障害、嚥下困難等の症状も出現しました。

手術はされたのですか。

脳幹出血は必ず手術するものではありませんが、当時の脳外科部長から手術したらどうかという話がありました。診療ガイドラインでは1回目の出血では様子をみるとなっていましたが、一度出血すると再出血する割合が20〜30%になるといわれており、どうせ出血するのなら手術して原因を除去したほうがいいと思って、所属する医局の大学病院に転院して相談することにしました。入院中にiPhoneで文献検索して、手術で7割が軽快していることを調べて、脳外科の教授にお願いし、2010年9月末に脳幹部の血腫と海面状血管腫の摘出手術をしてもらいました。手術で血腫を取り除いたおかげで、ほとんど動かなかった右上肢も少し動くようになり、構音障害も軽くなり、それまでの車いすから杖で歩行できるところまで回復しました。

血腫だけでなく海面状血管腫も取り除く手術をされたのですか。

脳幹にできた海綿状血管腫が出血したので、そのままにしておくと再出血する恐れがあるので、開頭手術で血腫と血管腫を取り除きました。

大学病院で手術してこの病院に戻るまで、どのくらいの期間でしたか。

手術後の経過に問題もなかったので、2週間くらいでこの病院に戻ってきました。

転院先を含めて入院期間はどの程度だったですか。

全部で2か月くらいです。8月の終わりに入院して、10月の終わりに自宅に戻って療養しました。たまたま妻が育休を取っていたので、育休の期間を少し延ばしてもらい、自宅で療養しながら週2回くらい病院でリハビリを受けました。その間に職場復帰に向けた準備をしました。職場に出てきたのは3月の初めでした。

復帰する仕事については、どう考えましたか。

発症から半年後の2011年3月に職場復帰しようと思いました。12年間婦人科医として働いてきたので、まずは婦人科を考えましたが、手術ができるわけではなく、できるのはがん検診ぐらいかと思いました。この病院には緩和ケア科の兼任医師はいましたが、専任医師はいなかったので、緩和ケア科の担当になることで職場復帰しました。

現在はどの診療科で働かれているのですか。

メインは緩和ケア科であり、緩和ケアチームで回診していますが、主治医は別にいるので、主に患者さんを診療する必要はなく、空いている時間は婦人科の仕事を手伝っています。婦人科では週1日外来で患者さんを診たり、必要に応じて手術にも応援に入っています。そのほかは放射線科で治療の外来や治療計画の作成等をしています。大学の放射線治療科にも定期的に通っています。

放射線治療を考えたきっかけは何でしょうか。

大学病院で手術を受けた後に、脳外科の教授が「脳の放射線治療をしたら」と勧めてくれました。脳定位照射というものです。自分は婦人科なので、子宮頚がんの放射線治療をしたいと言ったら、脳定位も放射線治療だと言われました。そのようなこともきっかけとなって、放射線治療医の道に進もうと考えました。婦人科医として、自分の患者さんの画像も見ており、CTをオーダーして再発の有無も診ていたので、診断も含めて、全くの素人というわけではなかったと思います。

基礎はあったわけですね。

それプラス、放射線科の独特の所見の言い回し等もあるので、やっていく中で教えてもらったり、勉強したりすることで、希望の放射線治療にもたずさわることができるようになりました。色々なものや人が繋がっていて有難かったですね。

放射線治療医になることが希望なのですね。

放射線治療医としてやっていくことが、自身の希望でもあり、病院も応援してくれました。いきなり治療計画を作るのは無理なので、1〜2年は画像の読影をして、ある程度してから放射線治療をすることになりました。こうした配慮をしていただいた上司には、感謝しています。

いつ頃から放射線治療の仕事を始めたのですか。

放射線治療医になるために、2014年4月から県内の大学病院に行くようになってからです。大学病院では担当医として外来の患者さんを診て、治療計画を作って治療し、フォローしていました。それ以前にも、この病院の放射線治療医から治療の基本を教えてもらっていました。3年前に放射線治療医の資格を取りましたが、大学病院には今でも週1回行っています。

障害のためにそれまでの仕事ができなくなった場合、方向転換に向けた準備にどの程度の時間が必要か皆さん気になると思います。一から勉強しなければならない分野もあるし、ある程度ベースがある分野もありますが、方向転換する先はベースがある分野の方がやりやすいでしょうね。

そうですね。私は婦人科で12年仕事してきたので、婦人科のがん患者さんや終末期の患者さんはよくみていました。緩和ケア科では他の診療科のがん患者さんの終末期も診ますが、終末期という点では婦人科も他の診療科も似た面があります。また、緩和ケア科に来る患者さんに対しては、それまでどんな治療をしてきたかもみることができるので、これらも勉強になりました。放射線治療医にとってはこれらの知識が全てリンクしています。

外科ではなく内科の医師だったら、放射線治療とはもっと距離があるのでしょうか。

そんなことはありません。診療科でがんを診ている医師であれば、内科であってもそれほど距離はないと思います。一方で、がんを診ていない医師だと難しいかと思います。

がん患者さんに対する治療という共通点があって、治療方法の違いだけですね。

対象患者も治療目的も一緒で、治療の手段を変えただけなんですね。

がん患者さんの治療カンファレンスも、外科と内科と放射線科が一緒にしていますからね。

そうですね。知識が深まっただけで、それほど違和感はなかったです。

現在の障害の状態について教えてください。

右半身の不全麻痺は今でも残っています。杖は使いますが歩行はできます。箸を使うのも左手です。左手ばかり使っていれば慣れてくるので、日常生活が凄く困っているわけではありません。

右手は多少は動かせるのでしょうか。

右手の握力は計測上はゼロですが、紙をつかむことくらいはできます。右手で微細な作業をすることは難しいですが、補助肢としては結構使えています。片手だけでは難しい作業には、押さえるだけでも右手は役に立っています。

パソコン入力は、どうやっていますか。

パソコンを打つのは左手で手打ちしています。右手は肩から動かすことができないので、両手を使って複数のキーを押す必要があるときは、左手で右手を持ち上げてシフトキーのところに持っていき、そこで押さえています。やっていれば慣れてくるもので、病気になって10年も経つといろいろなことがそれなりにできています。

片手だけで操作する入力方法もあるので、それを使えば随分と楽になると思います。

それは知りませんでした。

右足は使えるのですか。

右足は立たないわけではなく、杖があれば歩けます。

通勤はどうされていますか。

自分で車を運転して通勤しています。ハンドルにノブを取りつけて左手で運転し、右側にあるウインカーにはレバーを取り付けて左手で操作しています。アクセルとブレーキは右足で操作しています。

右足でも操作できるのですか。

アクセルもブレーキも右足で踏めますし、自分の車には自動運転機能があるので、高速道路なら時速80キロなどで設定すれば、速度が維持されて、前の車が近づけば減速してくれます。

そういう機能が付いている車を買ったのですか。

敢えて選んだわけではなく、たまたま買った車に自動運転機能が付いていました。

ユニバーサルですね。

たまたま付いていただけですが、これがとても便利です。

複視はどうなりましたか。

手は動かそうとしなければそれでも良いですが、目を開ければ全て二重に見えてしまうので、複視が一番辛かったです。脳出血から4か月くらい経って、職場復帰する直前頃になって、漸く正面に見る際の複視は治りましたが、眼球を振ったら今でも複視になります。車をバックさせるときに後ろを振り返ると複視になりますが、最近の車にはバックモニターがついていて後ろを振り返らなくて良いので、問題になりません。その程度なので、日常生活には特に支障はありません。

そのほかに日常生活の不便さはありますか。

右側の嚥下力が少し弱いので、注意してご飯を食べています。今はそれほど問題ではありませんが、年をとったら嚥下が悪くなるかもしれないと思います。

食べ物で工夫していることはありますか。

全然ないですね。普通に肉を食べたりビールを飲んだりしています。今は問題ないので、あくまで将来への不安です。もっとも60歳や80歳になったら、誰でも今の私のような嚥下の状態かもしれないので、あまり心配する必要はないのかとも思います。

医師として働く上で苦労したり、工夫されていることはありますか。

できない業務はしないことにして、診療科も変えてできる業務の範囲を広げているので、今は医師として働く上で苦労していることはあまりないです。手術を手伝うこともあるので、そこは苦労しています。左手しか使えないので、右手が使えたらもっと楽にできるのにとは思います。

手術ではどんなことをされるのですか。

ハサミで糸を切ったり、腹腔鏡のカメラを持つといった補助的な役割です。左手だとハサミが使いにくいとか、鉗子やコッヘル鉗子(外科用止血鉗子)が外せないとか、色々と苦労はしますが、周りも苦労しているのを見て知っていて、患者さんが不利益な状況でなければ業務としては回るので、私は苦労しているけれど、周りはそれを微笑ましく見てくれていると感じています。

左利き用のハサミもあるそうですが、医療用には左利き用のハサミはないのですか。左利きの人は1割はいるのですから、左利き用の医療用具があっても良いでしょうに。

ないと思いますね。左利き用の鑷子(ピンセット)とかクーパー(外科剪刀)とかは、多分絶対ないと思います。

立ってする仕事はされるのでしょうか。

放射線科はほぼ座ってする仕事で、婦人科の外来も座ってできますし、立ってするのは緩和ケア科で病棟を回診するときだけで、それも私のペースで回診できるので、有り難いです。その意味では、杖歩行のために凄く業務に支障が生じていることはありません。

今までしていたことができなくなった時には、どうしようかと色々可能性を考えたと思いますが、最終的には放射線治療医を目指すことになる過程では、どのようなことを考えましたか。

手術が好きだったので、手術ができなくなったことが一番衝撃的でした。大学病院に入院中に車いすで一人いる時に、自分の病気はがんではないので多分死なないだろうが、半身麻痺の状態で何ができるか、もう少し良くなって歩けるようになるかもしれないが、その時に何ができるかを考えました。婦人科でもがんの手術をしていたので、その意味では、まず「がんの患者さんを治したい」という思いがあって、治す手段として、婦人科の子宮頸がんは放射線治療で結構良くなるのを見ていたので、やはり放射線治療医かなと思いました。

他の選択肢は考えなかったのですか。

それ以外の選択肢は、あまり考えられなかったです。放射線治療医とは、それまでも患者さんの症例について色々と話合ったりしていました。実際に放射線科で働いてみると、左手だけでいろいろな操作をしなければなりませんが、時間はかかっても自分だけの問題なので、手術中に時間がかかるとか、外来中に時間がかかるといった患者さんや他のコメディカルに迷惑をかけることもありません。

放射線診断医と放射線治療医がありますが。

放射線診断医ではなく、放射線治療医になるという思いでした。それは最初からブレていないというか、他を考える余地はあまりなかったです。緩和ケア科には専任の医師がいなかったこともあり、職場復帰してからは緩和ケア科を担当していますが、終末期の患者さんを診ながら、診断の勉強をしてきました。放射線治療医になりたいという希望は、職場復帰する前から当時の病院長や大学の医局の教授にも伝えていましたが、皆さんそれを受け入れてくれました。ベースはがんを治すこととで、婦人科の時と今とで、自分のできていたことが大きく低下したという感覚はありません。

がんの治療方法では、外科手術、放射線治療、抗がん剤治療が3大治療法ですね。

手術はしていませんが、その代わりとなるものを皆の助けを得て行えています。都会の大病院では専門性を極めることが求められるのとは異なり、地方の病院では幅広く対応できるオールラウンダーの医師が求められる面があります。

いろいろなことができる多能工的な医師が求められるということですね。

今はそういう状況になっていて、診療の幅を拡げられる意味では有り難いですね。

医師として働く上で工夫していることや、周りから配慮してもらっていることはありますか。

長距離歩くことや自転車に乗るのも難しいので、車で通勤しています。職員用の駐車場は少し歩くので、患者さん用の駐車場を使わせてもらっています。

雨が降っているときに傘はどうされていますか。

左手で杖をついている上に右半身麻痺なので、傘はさせません。傘をささなくても良いような生活をします。車で横付けしているので、少し濡れるだけで済みます。

片手しか使えないと傘もさせないので大変ですね。

雨が降ると、出かけるのが億劫になります。東京や横浜などでは地下道があるので、都会の学会はほぼ傘はささなくて済みます。地方の学会で雨に降られると、タクシーを呼ぶしかありません。

緩和ケア科には、病床はあるのですか。

緩和ケア科には専用の病床はなく、緩和ケアチームがあるだけです。各診療科に終末期の患者さんがいると、主治医からの相談を受けて、緩和ケアチームが主治医と共同で患者さんを診る形です。緩和ケア病床がある病院だと、緩和ケア科がメインで患者を持つことになりますが、この病院では主治医がそれぞれ別にいるので、時間的にも余裕があることが、私には合っていたと思います。

緩和ケア科の仕事も病院で異なるのでしょうが、この病院では入院患者さんが対象ですか。

入院患者さんが対象です。主診療科は外来と入院はみていますが、在宅の終末期の患者さんまでは手が回らない場合が多く、以前は地域の訪問看護ステーションと連携して自分が訪問診療をしていました。最近では地域の開業医が診てくれるので、訪問診療に行かなくて済むようになりました。

そうすると、緩和ケア科はコンサルトやカンファレンスが中心で、患者さんを単独で診ることはないのですね。

主治医と一緒に診ています。疼痛に対するオピオイド(医療用麻薬)の調整や終末期のせん妄、鎮静のタイミング等についてコンサルトを受けています。

別に主治医がいるので、急変してすぐ緩和ケア科の医師が対応することはないのですね。

そうですが、婦人科の自分の患者は主治医としても診ています。緩和ケア科では、週2回のカンファレンスのほか、回診も普通の回診と同じです。他の病院にも緩和ケア科はありますが、この病院では院内で最期を迎える方も多い気がします。緩和ケアは放射線治療を受けた患者さんも多数おり、全然違うことをやっている感じはないですね。

放射線治療は、疼痛緩和のためにも行われますね。

放射線治療の目的のうち、3分の1はがんを治すための治療、3分の1は再発や転移の予防のための術後照射、3分の1は疼痛緩和です。その意味では、3分の1は緩和ケアの患者さんです。

緩和ケアと放射線治療は重なっているのですね。

この患者さんには痛み止めのオピオイド(医療用麻薬)ではなく放射線治療による疼痛緩和の方が良いと判断すれば、自分が放射線治療をしているので、主治医にも勧めることができます。

脳出血から片麻痺の状態となって、色々と苦労されてこられたと思いますが、障害のある状態になったことで、逆に理解が深まったことはありますか。

患者さんの気持ちは、良く分かるようになった気がします。それはすごく勉強になりました。手術をした大学病院には知っている医師もいましたが、医師も放射線技師も、病人を見る目で私のことを見るわけです。脳幹出血で意識が半分飛んでいる状況でも、右半身麻痺していても、それなりに私も考えているわけです。当然ながら、病気の人もそれなりに考えていて、こんな状態になってしまったと思ってたり、医療者のちょっとした一言がすごく有難いこともあったり、ぐさっと突き刺さることもあったり、そんなことが多分たくさんあるのだろうと思いました。

ご自身でもそれを感じられたと。

例えばMRIの台の上に乗せられるときにも、物みたいに扱われていると感じることがありました。技師もそういうつもりでは絶対ないのですが、何気なくそう感じたりするのです。今は、再び患者さんを診る側に戻ったわけですが、そういう思いを患者さんが持っているかもしれない、自分たち医療者のことをそう見ているかもしれないと、強く感じるようになりました。病気をすることによって、患者さんの気持ちがより深く分かるようになった気がします。たまに忘れることもありますが、その時のことをいつも思い出しますね。

患者さんのメンタル面のケアは大切ですね。

特にがんの患者さんは、治らないかもしれないと思っていることも多いため、私たちの所作や何気ない行動が心を傷つけるかもしれない。医師の仕事に復帰して障害は残りましたが、そういうことが理解できるようになった点は良かったと思います。

医師で同じように中途で障害になられた方がいた時に、こういうことが大事だとか何かアドバイスはありますか。

障害が残っても工夫できることはたくさんあるし、同じ分野ができないなら他にできることを探すべきだと思います。病院の中には医師でしか決められないことが多いので、できることは必ず見つかると思います。

医師にしかできない仕事というのは。

医師の仕事というのは「決める仕事」であって、どこの科でも医師が決めないと動けないので、そこが医師にしかできない仕事です。病気や怪我でそれまでの自分の仕事ができなくなったとしても、医師としてやれる仕事は、分野は変わっても多分変わらないと思います。

医師が入るか入らないかで決められる範囲が大きく異なるので、どんな障害があっても、医師としての視点で意見を言えるのは、この職種ならではの利点でしょうね。方向転換先を決めるポイントは何でしょうか。

興味や適性もあるので、どこが良いとは言えませんが、私の場合は、もともとがんの患者さんを治したい思いから入っているので、放射線治療医を選びました。一方で、リハビリ科のように機能を取り戻す仕事にやりがいを感じる方もいると思います。何を選ぶかは自分で決めるしかなく、誰かが提示してくれるものではありません。何で医師になったかという原点に戻って、自分のしたいことを見出すしかないと思います。自分にできることは必ず見つかると思いますし、ぜひ遠く高く飛べるところを見つけていただいたら良いと思います。

「原点に戻れば見つかる」ということですね。

何で医者になったかという原点ですね。抽象的すぎるかもしれませんが。自分も10年前はまだ38歳だったので、これからどうなるのだろうという不安感で一杯でしたが、院長や事務局長や皆さんに配慮していただき、とても有り難かったです。

最後に、障害があって医師を志望する若い皆さんに伝えたいメッセージがあればお願いします。

医師になるという意欲や意志があるなら、頑張って欲しいですね。運動系の麻痺がある場合、5〜6時間の長時間の手術は困難かもしれないにしてもです。

外科医は難しいですね。

医師は外科医ばかりではありません。医師の中で外科医は一部にすぎません。

手塚治虫さんの漫画「ブラックジャック」から医師のイメージを外科医と考えがちなところはありますね。

全ての外科医が手術をしているわけではありません。手術は引退しているとか、別の診療科で働く外科医もいます。緩和ケアの仕事をしている外科医もいます。外科手術ができなければ医師の適性がないということではありません。患者さんを診て根拠のある診断に基づいて治療し、治療の結果を評価し、さらに患者さんにどのような治療をするかといった、反復する作業が医師には求められます。その一つの手段に外科手術があるわけで、外科手術ができないから医師になれないわけでは全くありません。

様々な診療科がありますからね。

色々なタイプの医師がいて、小児科医がいたり、内科医がいたりするわけです。右手を使えない状態で無理して外科手術をすれば、患者さんに迷惑をかけることになります。そんなことは目指さなくて良いのです。医師として目指すところは、他にもたくさんあります。もし医師になりたいと考えている学生がいるなら、その夢に向かって一所懸命に勉強して、色々な話を聞いて、トライしたら良いでしょう。絶対どこかに適性があって、医師として活躍できる場があると思います。

勇気が出る話ですね。本日は有難うございました。

(2020年1月収録)

ドクターWEST医師のインタビュー

まず最初に、医師になろうと考えた理由と時期について、お聞かせください。

父親が内科の開業医で、姉も医学部に進学していたため、子供の頃から医師は身近な職業でした。将来なれたらいいなと漠然と考えていましたが、一方で難しいかなと思っていました。真剣に医師を目指す気持ちを固めたのは、高校生の時です。ありきたりな言い方ですが、父親の姿を見て、医師になりたいと思いました。

ギラン・バレー症候群という病気で視覚に障害が生じたのは、医学部在学中ということですが、当時のことを教えてください。

医学部5回生の5月の大型連休中から、下痢等の胃腸症状が続いて、大型連休後に暫くして、最初は舌が痺れるような感覚があり、歩くのもふわふわした感じで、真っ直ぐ歩けなくなってきました。小学校の時にギラン・バレー症候群になったことがあったので、大学で学生が受診できる外来があり、内科と神経内科の2人の先生の診察を受けました。その時点ではまだ明らかな筋力低下はなかったので、神経内科の先生からは、「もし症状が悪くなったときには入院できるよう準備しておくよ」と言われました。一旦下宿に帰って寝て、次の日の朝起きたら歩けなくなっていました。先輩や同級生に抱えられて病院に行き、即入院となりました。入院した日の夜には呼吸困難となり、人工呼吸器が付けられ、3日目にはICUに移され、瞬きと眼球運動以外はどこも動かなくなってしまいました。

視覚の方はどうだったのでしょうか。

入院する前の日くらいから、キラキラしてちょっと眩しい感じがあって、入院して病室に入った時には、目の前に立っている後輩3人のうち2人しか見えず、視野が欠けていることに気が付きました。そこからは呼吸困難になりICUに入ってしまい、誰ともコミュニケーションが取れなくなりました。周りが見えにくいと感じていましたが、意思伝達ができない状態でした。1か月が経ち、危機的な状況は脱したということで、神経内科の病棟に移り、瞬きでコミュニケーションをとるようになってから、目が悪くなっていることを伝えました。自覚としては、右目はほとんど見えず、左目は真ん中だけ見えているという状態でした。目のことが気になりだしたのは、命の危険のピークが過ぎて落ち着いてからで、それからはすごく悩みだしました。

入院期間はどのくらいだったのですか。

翌年の4月末までなので、約1年です。

最初は話が全くできなかったのでしょうが、多少とも話せるようになったのは、いつ頃でしょうか。

カ行とタ行だけ言えるようになったのが、夏くらいです。9月くらいからは、少しづつ人工呼吸器を外してみるようになって、お正月前には昼間の多くの時間は外せるようになり、夜寝ている時だけを付けるようになりました。年が明けてしばらくして、人工呼吸器は完全に外しました。

人工呼吸器を外したら、話はできるようになったのですか。

昼間の時間帯に外した時点から、少しずつ喋れるようになりました。

今は普通に話せているので、後遺症が残っている感じは全くありませんね。

発声に関しては、後遺症の自覚はないです。

退院した時の状態はどうだったのでしょうか。

まだ首も座っていなかったので、首も支える頭のところまで高さのある車いすを使っていました。小学校の時にギラン・バレー症候群になったことがあり、イメージは分かっていたので、リハビリが大事と思っていました。でも、退院時はまだ歩ける状態ではありませんでした。目の状態は、右目は全く見えておらず、左目は中心が縦5度、左右10度の針穴くらい、文字にすると横に6文字くらいの視野で、曇りガラス越しに見ているような感じでした。

そういう状態で退院した後、自宅で療養されていて、大学に復学したのはいつ頃でしたか。

退院してから1年後の4月です。その1年間は、かなりリハビリに力を注いで、少しでも時間があればリハビリをして、何とか身体を戻して復学を目指したい思いでやってきました。大学側も目のことはある程度は分かっていたので、復学を許可するかどうかは教授会でもかなり話し合いが持たれたことを、後になって聞きました。当時は欠格条項もあったので、「復学させてもそのあと続けられないなら、復学を認めない方が本人のためにも良いのでは」という意見もあったそうです。一方で「本人が復学したいのなら、復学させてあげれば良いのでは」という意見もあり、その時点ではまだ中心が少し見えていたので、「見えている所の視力を使って、どこまでできるかやってみたら良い」という結論になったそうです。

そこまでの厳しい状態だと、復学を考えるのも勇気がいるというか、不安がたくさんあったと思います。それでも復学したいという強い思いを持っていた理由は、何だったのでしょうか。

医師になりたいという気持ちはずっと持っていて、それは変わりなかったのですが、それ以上に、長期間入院をして大学からも離れる中で、それまで普通にあった社会との繋がりがなくなってしまいました。なので、社会との繋がりをまた作りたい、そのためにも働きたいと思いました。働きたいと思った時、目が悪くて今から何の仕事ができるか考えました。マッサージとか鍼灸とかのいわゆる視覚障害の方がされている仕事をイメージしましたが、これだけ身体が動かないと、それも全部できないと思いました。それだったら、医学部に戻る方が可能性はあると考え、医学部に戻りたいと強く思いました。

結果的には、医学部に戻ったからこそ道が開けた、ということですね。ちょうど、医師の欠格条項の見直しが、復学の時期と重なりました。

それがとても幸運だったのです。病気になったことは、すごく運が悪かったと思いますが、時期的なタイミングは、とても幸運だったと思います。復学した年の7月に新聞に欠格条項の改正の記事が出て、それを見たリハビリ室に通われていた年配の方が、「新聞にこんな記事が載っていたよ」と切り抜きを持ってきてくれました。そのことがかなり勇気に繋がりました。

その知らせを聞いて、どう思われましたか。

「目が見えなくても、医師になれる可能性がある。これを何とか手がかりにして、次に繋げていきたい」と思いました。

復学された時の状況ですが、歩行はできたのでしょうか。

学校の通学や構内での移動、臨床実習などは、全部車いすでした。病気になるまで4年間卓球部にいて、キャプテンをしていたこともあり、クラブの人間関係の繋がりが多かったのですが、新しく一緒の学年になった2年後輩の卓球部の男子3人が、クラスアドバイザーの先生に「僕たちがサポートします」と申し出てくれました。実は、復学する少し前の彼らが4回生の講義に出ている頃から、教室にも練習のつもりで午前中だけ行かせてもらっていました。その頃は車いす用のトイレがなかったこともあり、トイレを我慢できる間の時間だけ行くという具合でした。5回生からは実習が始まります。実習の時には小さなグループの3人班を組むのですが、私のほかは卓球部という構成にしてくれて、その2人が1年間の実習の際は全部車いすを押してくれました。もともとサボりやすい2人だったのですが、どちらかは必ずいてくれて、ずっと車いすを押してくれてたおかげで、すべての診療科を回ることができました。

医学部の5年、6年の2年間ですね。車いすは移動の問題ですが、視覚の問題について大学の授業はどうされたのですか。

読むことと書くことができないのが一番の問題でした。視覚障害を補うスキルを学ぶ機会は、医師国家試験が終わるまでは全くなかったので、利用することはありませんでした。5回生で復学した年の7月までは、少し見えている所を頼りに本を読んだり、プリントを見たりしていたのですが、7月にそこも段々見えなくなってきて、7月下旬には完全に見えなくなってしまいました。そのため、5回生の夏休みは完全にうつ状態になってしまい、昼間も寝ていてご飯だけ食べてまた寝るという感じで、ずっと実家で過ごしていました。9月から一体どうしようという状態だったのですが、同級生2人に目が見えなくなってしまったことを打ち明けたら、「僕らがサポートしますから」と言って車いすを押し続けてくれました。

良い後輩達ですね。

気分は鬱々しているのですが、車いすに乗ってしまうと、あとは勝手に押してくれるので、実習は全部参加できました。そうこうしているうちに、少しずつ気持ちも戻ってきました。6回生への進級試験の頃までは、学校側も私の目が完全に見えなくなったことは知らなかったと思います。それでも、目が悪いことは一応伝わってはいるので、臨床の時の画像などは、どういう所見があるかドクターがなるべく言葉で伝えてくれました。ドクターの中には、積極的に車いすを押して、あちこち連れて行ってくれる方もいました。そういう点では、実習は車いすだからできた面があると思います。

手術室にも入るのでしょうね。

手術室では清潔作業はできないですが、不潔の扱いで同じように手術室に入らせていただき、見えはしないもののどんなことをしているか、横にいる学生から教えてもらったりして、雰囲気は体験できました。

講義は聞けば良いのでしょうが、実習はその場に行って見るのが中心ですから、見たことを誰かが話して伝えてくれないと分からないですよね。それを同じチームの2人が後で教えてくれたり、講師の方が口頭で説明してくれたり、周りにいる皆さんが目が見えないことを理解した上で対応してくれたのですね。

そういうことです。メジャーな診療科の実習では3つのチームが合併するので、8人くらいになりますが、そのメンバーの方もサポートしてくれました。

非常に周りの人達の協力があったわけですね。そういう中で、医師の国家試験という最大のハードルがあるわけです。試験に合格するのは相当大変で、テキストもたくさん理解しなければならないと思いますが、少しは見えていた視力が見えなくなってしまって、どうやって勉強されたのですか。

自分にできるようになった唯一のことは、指はまだ不自由でしたが少し動かせるようになったので、小さなカセットレコーダーの録音ボタンと再生や巻き戻しのボタンを押すことでした。父親が買ってきてくれたカセットレコーダーを使って、録音しました。

授業を録音されたのですか。

講義も録音させてもらいましたが、実際、なかなか聴き直す時間がありませんでした。国家試験に関しては、大きく2つの方法でやりました。一つ目は、学生が一般的な勉強をする本や過去問を両親や兄弟、作業療法士の先生などに読んでもらい録音しました。8割方は両親が読んでくれましたが、90分のカセットテープに録音したものが全部で400本くらいになりました。それを下宿でひたすら聞くということです。もう一つは、6回生の国家試験のための勉強会に参加させてもらいました。通常は担当の問題を事前に勉強してきて、皆んなの前で説明して教え合うのですが、私はそれを免除してもらい、皆んなが勉強してきたことを一緒に聞いて、一緒にディスカッションすることを1年間させてもらいました。

大学には自宅から通われたのですか。

大学から10分〜15分くらいの所にあるワンルームのマンションに、病気になる少し前から一人で暮らしていました。退院してからは母親に一緒に住んでもらい、病院に通院していました。このため、父親は実家で一人暮らしとなりました。

大学への通学はどうされていたのですか。

母親が車いすを押して送り迎えをしてくれました。

大学内の移動はどうされましたか。

同級生がサポートしてくれました。

待ち合わせはどうされたのですか。

大体何時にどこというように時間と場所を決めて、待ち合わせました。

携帯電話も普及していなかったから、大変だったですね。

PHSは持っていましたが、しゃべる機能は付いてなかったですね。

ところで、医師の国家試験を受けるか受けないかは、本人が決めれば受験はできたのでしょうか。大学がゴーサインを出さなければ受験できなかったのでしょうか。

そこには、いろいろなことがありました。6回生になって、国家試験が大変だということは頭ではわかっていましたが、特に行動は起こしていませんでした。入院中からお世話になっていた病院のソーシャルワーカーの方から、国家試験の準備はしているのかと聞かれ、していないと答えたら、「8月には特例受験の申し込み方法などが官報に載るので、夏前から準備しておかないといけない」と言われました。その方がアクティブに動いてくださり、目が見えなくてどうやって国家試験が受けられるかの情報を色々な人に問い合わせてくれて、夏休み期間には二人の全盲の方に面会するアポイントも取ってくれました。一人は全盲で初めて弁護士になった京都の竹下義樹弁護士で、もう一人の方は幕張にある障害者職業総合センターの指田忠司さんでした。竹下さんとは京都で、指田さんとは大阪でお会いしました。

どんなお話を聞かれたのですか。

竹下さんからは司法試験の受験をどのようにされたか、指田さんからは他の資格試験でどんな受験方法を採用しているかを聞かせていただきました。その時まで資格試験の準備はしていなかったのですが、全盲でアクティブに色々な活動をされている大先輩がいることは、何よりも勇気に繋がったと思います。お二人それぞれから、視覚障害のある医師がいるという情報をもらいました。厚生省の仕事をされていて既に退職されていた東京の医師と、その方の知り合いの熊本のリハビリテーション科の全盲の医師、栃木の全盲の医師の3名でした。このうちお2人からも色々とお話を伺ったりしたほか、大阪のライトハウスの訓練施設でも話を聞かせていただきました。そうして集めた情報をソーシャルワーカーの方と一緒にまとめてプリントアウトし、欠格条項改正の新聞記事をコピーしたものと一緒に封筒に入れて、教授室のある建物の出口のところで通りかかる教授に片っ端から配りました。そうしたら、クラスアドバイサーの先生から、もうそんなことしなくて良いと言われ、その後に学務課の方の面談があって、「もう心配しなくて大丈夫です。試験の申し込みなどの厚労省とのやり取りは学校がするので、安心して勉強に専念してください」と言ってくださいました。

放っておいても周りがやってくれたわけではなく、気にかけてくれるソーシャルワーカーの方がいて、自分自身も一緒になって動き始めて、それに学校が応えてくれたということですね。

学校側も私が見えていないのは分かっていましたが、詳しい状況までは分かっていませんでした。私自身もどうしたら良いかさっぱり分かっていませんでしたが、最初の情報収集と整理をしてくれたのはソーシャルワーカーの方で、そこから先の国家試験受験の方法などは学務課の担当窓口の方がついてくれて、厚労省とも何度かやり取りをしてくださいました。10月から12月の3か月間は卒業試験が続きました。卒業試験は対面朗読で読み上げて、レコーダーに録音してそれを聞き直して口頭回答するという方法で全部受けました。厚労省から卒業試験はどのようにやったのかと大学が聞かれ、こういう方法で卒業試験をしてその結果を判断に使ったことや、使用したものも説明していただきました。卒業試験の方法が、国家試験の受験方法の参考になりました。更に、国家試験では画像の問題も普通の受験生と同じように出題されることになり、それなら手伝おうと手を挙げてくれた教授、助教授、講師の先生が20人、同じ日に連続して交代で模擬試験をしてくれました。

どんな模擬試験ですか。

画像問題の出題法には3つのパターンがあることを厚労省から示されました。①解釈を伴なわない説明があり、質問は受け付けないパターン、②解釈を伴なわない説明が少しあり、質問に対して解釈を伴わない返答をするパターン、③説明がなく、質問に対して解釈を伴わない返答をするパターンの3つです。これに合わせた模擬練習を20人の先生方がしてくれました。

それは、素晴らしいですね。

本当に有り難かったです。

国家試験の受験には、どのような条件が付いたのですか。

具体的には6つの条件がありました。1点目は、問題内容と問題数は一般受験者と同じ。2点目は、別室受験で試験時間は通常の1.5倍。3点目は、対面朗読で問題を読み、それを録音して聞き直すことは可能。4点目は、漢字などは同音のことがあるので、文字を尋ねることは可能。5点目は、口頭で解答し、マークシートには代筆記入。6点目は、先ほどの画像問題の3つのパターンの出題です。

画像問題では、やはり実際に3パターンの出題があったのですね。

問題数に差はありましたが、3パターンの出題がありました。

そして、合格されたわけですが、その時はどのようなことを思われたでしょうか。

母親は合格発表の張り出しを見るために出かけていました。1人でワンルームの下宿のベッドに座っているところに厚労省の方から電話があり、合格の知らせを聞きました。筋力がないため本当に飛び上がってはいませんが、気持ちは‘やったー’と思いっきり飛び上がりました。

試験に合格した後には、医師免許の取得という次の壁も出て来るのでしょうが、その前に、当時は入局する診療科を決めたのかと思います。当時の臨床研修は、現在のような複数の診療科を回るスーパーローテート方式ではなく、特定の診療科に入局するストレート方式があったわけですが、どの診療科に入局されたのですか。

出身大学の精神科に入局しました。

精神科に進むことを決めたのは、いつ頃ですか。

6回生の年末くらいから各診療科の入局説明会が始まりました。国家試験のことで頭が一杯だったのですが、自分が将来行ける可能性があるのは、やはり精神科かなと考えて、精神科の説明会に行かせてもらいました。スーパーローテートが始まる前年だったので、どこかの科に入局する最後の年だったのですね。

それも先ほど幸運だったと言われた一つの理由ですね。

そうです。

2004年からスーパーローテートになりましたが、そのことでハードルが高くなった面はありますか。

弱視である程度診療科を回れる方は良いのですが、2005年に全盲で医師になられた方の話では、スーパーローテート方式での研修の引受先が決まらず、特例で特定の診療科、例えば精神科だけの研修をした場合は、医師の資格に勤務医はできるが個人開業はできないという制限が付いたそうです。

プライマリケアができないということですかね。

自分が責任者になれないということかと思います。

今でもその制限は変わっていないのですか。

その後は全盲で合格した人がいないので分かりませんが、多分、変わっていないでしょう。

精神科以外の選択肢は、考えませんでしたか。

病気をする前には、この科に行こうと決めている科もなく、外科とか細かい作業をする科は苦手だから多分ないなとか、父親が内科だったので内科の可能性もあるかなと思っていた程度です。実際に進路を考えたときには、自分の状態に照らして仕事ができる可能性が一番あるのはやはり精神科だと考えたのと、もう一つの理由は自分自身がかなり大きな病気をした体験を通して、身体の病気と心の問題は大きく関係していると思い、メンタルに対する関心が高まったことです。

医師免許はいつ下りたのですか。

そもそも医師免許がすぐには下りなかったのです。3月には医師国家試験の合格通知が来たのですが、実際に免許が下りたのは8月でした。

8月まで待たされたのですか。

免許を与えて良いかどうかの面談が8月だったのです。厚労省からの呼び出しがあり、東京の厚労省の建物に8月に行きました。

それまでの間は不安だったでしょうね。

いつ呼ばれるかは示されず、事前に何月何日に来てくださいとの連絡があるとのことでしたので、いつまで待たなくてはいけないのか分かりませんでした。実際に、私の後に全盲で国家試験に合格した二人目の方は、10月まで待たされました。

医師免許が下りるまでの間は、医師の業務はできないわけですよね。

その間は、見学生のような形になります。

面談では、相対的な欠格事由に該当しないかどうかを判断するのですね。どのような面談でしたか。

5人くらいの先生方がいて、それぞれから色々と質問があり、それにお答えするものでした。

今日的な視点で考えると、どういう職場で働くかによって、ずいぶん違いますよね。医師として働けるかどうかは、個人だけ見て分かるものではなく、まさに環境との関係で見なければならないでしょう。大学からも色々と聞いていたのでしょうか。

そこは分からないですが、面談があってから後は早くて、多分3日くらいで免許が下りました。

本当の意味で、医師として働けると思われたのは、その時ですね。

試験に合格した時は凄く嬉しかったのですが、安心したのは医師免許が下りた時でした。

精神科に入局されて、学生時代とは異なり研修医として働く中で、また新たな課題も出てきたと思いますが。

それは沢山ありました。やはり、学生は何だかんだいっても守られている存在です。そもそも入局を受け入れてもらえたことが、有り難かったです。これだけの障害があると、受け入れてくれない科も多いと思いますが、精神科は快く受け入れてくれました。もともと精神科の医師には優しい先生が多いのですが、同期が8人も入局していたので、回診の時などは同期の先生方が代わる代わる車いすを押してくれました。病院からは、サポートしてくれる看護助手さんを一人選任して、私の担当にしてくれました。移動する時などは、その看護助手さんのPHSに連絡すると、少し待つことはありますが、移動のサポートをしてくれました。

研修期間中には、どのようなことをされていたのですか。

普通の研修医がやっていることはできず、自分ができることをやらせてもらっていました。研修医は、普通なら外来で診察医の横でカルテを書いたり、パソコンを打ち込んだり、処方箋を打ち出したりするような補助的な仕事をしながら、知識と経験を積んでいくわけですが、私にはそういう仕事はできないので、外来では患者さんと診察医のやり取りをひたすら聞くことをしました。病棟では、通常は同時期に4人とか5人の患者さんを受け持つことが多いのですが、私の場合は1人か多くても2人の患者さんを担当させてもらいました。研修医に対する講義は、皆んなと同じように聴かせてもらいました。自身の外来は、入院で担当した患者さんの退院後の診察をする程度でした。最初のうちは、そういう感じでした。

研修医としての2年間を含め、大学には何年間おられたのですか。

6年間です。

最初の研修医の2年間が終わってからは、どうなったのでしょうか。

3年目からも、その形自体は大きく変わりませんが、それに加えて外来でできることは何かないかということで、性同一性障害の専門外来をされていた先生からお声掛けいただき、その専門外来の診察を少し担当させていただきました。そこは画像もあまり関係なく、話を聞いてまとめるようなところが多いので、外来業務の経験を積ませていただきました。

精神科には、統合失調症、うつ病、不安症など様々な患者さんが受診されますが、ご自分の障害の状態を考えた時に、やりにくいものとやりやすいものがあるかと思います。性同一性障害というのは、比較的やりやすいものなのでしょうか。

今のクリニックに来てからは経験知も増えていますが、当時としては多分、疾患の鑑別が課題になったと思います。その点では、画像診断などが必要なものに比べ、性同一性障害はある意味特殊な外来で、この病気の診断を受けたいと患者本人が言ってくる点に特徴があります。

鑑別の必要性がそれほどないということですか。

何か他の疾患が混じっていたら、それを鑑別しなければいけないのですが、性同一性障害の場合は、何も分からないところから鑑別するものではないということです。話をたくさん聞いて書類にまとめるところも、私には向いていたと思います。

患者本人から自分の思いを聞いて、それを整理してあげる外来なのですね。

生活史なども整理します。それに加えて、性同一性障害に関する診断と治療のガイドラインでは、二人の精神科医の意見が一致することが要件とされているので、自分一人で診断するわけではなく、上司の先生と二人の診断で確定することも良かった点です。そこから先のホルモン療法や手術療法をしていく時も、環境が整っているか、その治療に問題がない状態かということについて話し合う機会があるので、そのために診察をして書類を作ったりしました。

3年目から6年目までの4年間は、性同一性障害の専門外来を担当されていたのですか。

それをメインにしていました。

そこから今のクリニックに移られたのですね。

大学病院では、凄く経験をさせてもらえました。ただ、大学病院で働き続けることには、色々な課題もあって、研修医が終わって4年が過ぎた時点で今のクリニックに移りました。

精神科医として現在はクリニックで働かれていますが、診察について職場のサポートはありますか。

診療室に医療事務の資格を持つスタッフが一人控えていて、処方箋の打ち込み、カルテの処理、書類やデータの読み上げなどを手伝ってくれています。

スタッフの方のサポート内容について、もう少し教えてください。

具体的には、以下のようなサポートです。
(1) 事前の患者情報、問診票、心理検査、血液検査などの情報提供
(2) 予約管理、処方箋入力、紹介状・診断書入力、読み上げ確認
(3) 患者の呼び込み、案内、他診療科との連携調整
(4) カルテ記載、音声パソコンで作成したカルテ内容の貼り付け
(5) 説明用の便利なボードの作成、パンフレットや資料の説明
(6) 必要な医療情報の検索、読み上げ

説明用のボードというのは、どんなものなのでしょうか。

これは自分の中では重宝しているものです。例えば抗不安薬とか睡眠薬にも色々なタイプがあるので、効き目の長さや強さを表にした紙をプラスチックで挟んでボードにしたものを作り、それで説明するようにしています。それ以外にも、抗うつ薬の種類や特徴、認知についての説明、強迫性障害の悪循環など表や図で表したものをボードで作り、それらを使いながら説明しています。

患者さんにとっても理解しやすいですね。

説明する内容によってはプリントもあるので、お渡しすることもできます。それ以外にも2か月に1回クリニック通信として院内やホームページ用に書いている文章があり、それをスタッフがプリントしてくれたものを説明する際に渡したりします。そうすると説明内容が伝わりやすく、診察時間も短縮できます。

ボードに凹凸があれば、指差して説明することもできますが。

ここら辺と患者さんに説明して、あー載ってますと患者さんに指差してもらう方が良いかと思います。患者さんが見ているかどうか、それで分かる面もあります。

読み上げソフトは利用していますか。

多くの病院で勤務する医師やコメディカルの方にとっては、セキュリティの関係で電子カルテのパソコンに音声ソフトをインストールできないという問題があります。

今のクリニックでもできないのですか。

できないのですが、スタッフの方が全部やってくれているので、困ってはいません。今のクリニックは、処方箋や予約システム、会計は電子化されていますが、カルテ本体はまだ紙なので、パソコンで打ったものをプリントアウトして貼っています。

ところで、医療情報や国内外の論文の情報には、どうやってアクセスしていますか。デイジー(DAISY アクセシブルな情報システム)なども使われるのでしょうか。

デイジーは個人的な楽しみで使っているだけで、仕事にはほとんど使っていません。仕事に関係するものとしては、たまにアンガーマネジメントなど一般向けの本を読むのに使います。パブメド(PubMed 米国の医学文献データベース)の検索の研修には一度行きましたが、その後は特に使っていません。

学術論文については、日本精神神経学会が毎月出している学会誌のデータを「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」がもらい、ボランティアの方に読みやすい形に修正してもらったものを、学会に加入している人で希望のある方に情報共有しています。

DVD版の「今日の治療指針」という医学書籍があるそうですが。

それは毎年買って、よく使っています。

音声で聴けるようになっているのですか。

画像とかは無理ですが、テキスト部分は音声ソフトとの相性もあって、すぐには読めないので、読みたいところだけメモ帳に貼り付けて読めるようにしています。

苦労されているのですね。

自分が普段使う情報、特に薬の情報などは、事前に全部メモ帳に貼り付けて、いつでも調べやすいようにしています。

それは自分で作られるのですか。

DVDを購入して、画面上ならクリッククリックで行けるところを、フォルダーに分けて、そのフォルダーの中に貼り付けたメモ帳を作ることを休みの日にやっています。

薬の情報は特に大事ですね。

薬は年々情報が変わるので、毎年チェックしています。

「今日の治療指針」というのは、精神科に限らず医師の皆さんはよく読まれているものですか。

大学病院だと大学が購入して、あちこちのパソコンで調べられるようにしています。

今は何科で働かれているのですか。

心療内科と精神科を標榜しています。

大学では性同一性障害の専門外来でしたが、このクリニックでも性同一性障害の患者さんを診ているのでしょうか。

ここでは診ていません。

どんな患者さんを診ているのですか。

ここはペインクリニックなので、半分くらいはペインと心療内科の両方にかかっている方です。痛みを主訴に受診されますが、精神科的な課題を抱えています。身体症状症と言って、不安やイライラ、怒りなどの気分が痛みに変わる症状で、どこに行っても異常がないと言われるような方です。

いわゆる不定愁訴ですね。

そうですね。だから一般の診療科では、心の問題だと言われます。でも感じている痛みは、本当にリアルな痛みです。

痛みはどこの痛みでしょうか。肩や腰の痛みとか、片頭痛といったものですか。

どこでもありますが、多いのは口が痛い、舌が痛い、胸とか背中が痛いとかで、首、肩、後頭部の痛みもありますね。

先ほど鑑別診断の話がありましたが、ここに来る前に内科などを受診していて、「内科的な問題はなさそうで、むしろ心療内科に診てもらった方が良い」と言われて紹介されて来られる方ですか。

ペインクリニックの心療内科を受診される段階で、あちこちの医療機関を回り回って来ている方です。どこに行っても、治療しても良くならないという方なので、その意味では鑑別が終わっているようなものです。

心療内科に関わるスタッフは何人くらいですか。

診療内科に関わるスタッフは、専属2人と兼務1人です。

クリニックに来られる患者さんは、最初に心療内科で診察するのですか。

心療内科に来られる方のうち、半分はペインとの併診ですが、半分は心療内科だけにかかっている方で、うつとかパニック障害の方がほとんどです。

そうすると、大学の専門外来のように限られた患者さんではないので、身体疾患についての鑑別は終わっているけれど、心の問題については幅広い患者さんが対象ということですね。

だいぶ経験させてもらっていると思います。

毎日の診療の中で心がけていることや、工夫していることがあれば、教えてください。

診療をしやすくする工夫としては、先ほどお話ししたように、ボードやプリントを作って活用しています。目が不自由なことはオープンにしているので、初診時に挨拶をする際に「目が不自由なので、色々お話を聞かせてください」と最初に伝えます。

患者さんは驚かれますか。

結構、知っている方が多いようです。点字毎日新聞などに私の記事が載ったりすると、広報の担当者がクリニックの待合室に貼ってくれたりするので、それで知っている方も多いのかと思います。ペインに来た患者さんだと知らない方もいますが、顔が見えていないので分かりませんが、別にそんなに驚かれている感じはないですね。それと、スタッフにサポートしてもらって診察しているので、「スタッフが同席しますが、ご了承ください」ということを最初に伝えます。

どんな服装か、顔つきがどうかといった患者さんの様子については、スタッフが伝えてくれるのですか。

伝えてくれます。

それは患者さんがいる場ですか。

患者さんが退室した後です。ただ、患者さんが「ここが痛い」と言って指差しているのは見えませんから、そういう時はスタッフが覗き込んで、どこを指していますと教えてくれます。「ここにブツブツができています」と患者さんが言えば、どんなブツブツかスタッフに見てもらうこともあります。服装が乱れているとか、太ってきているとか、痩せてきているとか、変化があった時にはスタッフが後で教えてくれます。

声には気持ちが出るものだと思いますが、会話の中でその人の精神状態がどんな状況か、私らが感じる以上に分かるようにも思いますが、実際のところどうでしょうか。

私の個人的なイメージとしては、多分、目が見えていても感じられるのと同じくらいに感じていると思います。凄く繊細に感じているわけではないけれども、少なくとも同じレベルでは感じていると思います。逆に、目が見えていないので、外れている可能性はあるかもしれませんが、当て図っぽうでも「何か今日はいつもより元気ないような気がするけど、何かあった?」と言って、見えてないのを良いことに話を振ってみることはあります。

他の情報に紛れてしまうことが、情報が限られることで、逆に隠れていたものが見えてくるように、患者さんが納得してしまう部分があるのですね。

耳でしか聞いていないから、その限りではそんな感じがするということを伝え、本当にそうかどうかはその後の話で分かるみたいなところがあります。「分かって言っているわけではなく、そんな気がするのだけれど」と伝えられます。

そういうことも言いやすいのでしょうね。見えていなことで、患者さんが自分を出しやすいとか、話しやすいという面はあるでしょうか。

見た目を気にしている方はそうかもしれません。自分がどう見えるかを気にすることに関しては、別に見えていないので心配しなくて良いという感じですね。性同一性障害の方だと、心で望む性に見られているかを気にする方もいますから。

視覚障害のある医師が働く上で、便利な道具はありますか。

いかに新しいITを使いこなしていくかだと思います。私が医師になった頃は音声パソコンが一番新しいツールで、パソコンに読み上げソフトをインストールすることが最新の対応でした。今はもうアイフォンやスマートフォンがあるので、便利なアプリをどう使いこなしていくかが一番大切かと思います。

こんなの知っていると伝えたいような優れものはありますか。

凄く高価で、日常生活用具の給付対象には一部しかなっていないのですが、イスラエル製の「オーカム マイ アイ」という、メガネの横に磁石で取り付けるタイプの製品で、例えば印刷された文書の見たい場所を指で指すと写真を撮影し、2〜3秒で読み上げてくれるものがあります。

それは日本でも使われているのですか。

2年前から日本でも発売されています。私はまだ使っていないのですが、この前初めてライトハウス情報文化センターでお試しさせていただきました。予め顔写真を登録しておくと、向かいに座った人が誰なのかも教えてくれます。市町村によって対応は異なりますが、購入費の一部を日常生活用具の給付費として助成する自治体が増えてきました。それでも高額の自己負担が必要ですが、ここまで読めるのかと思うほど、とても賢かったです。

読んだものは耳で聞くわけですね。

メガネにつけた装置が耳の近くで喋ってくれます。無線でイヤホンに飛ばすことも可能です。

普通のスマホにアプリをインストールして、服の色が何色だとか教えてくれるものもあるようですが。

それも体験させてもらいましたが、便利でした。スマホのカメラ機能を使って、文章も読んでくれます。

もうあと2〜3年も経つと、そういうのが普通になっているかもしれませんね。

これからは、多分こういう系統のものが進化していくと思います。

診療の現場でも使えそうですか。

例えば手書きの紹介状では難しいでしょうが、パソコンで作成されたものなら読んでくれそうな感じです。実際に持ってみないと、どれだけ使えるかわからないのですが、電子カルテの場合には、画面上の同じ場所を指差したら読んでくれるようになるかもしれません。でも、スタッフが読んでくれる時は必要なところだけ読んでくれますが、機械だと不要なところまで全部読む可能性がありますね。

効率的に読めることが、実用には必要だということですね。

仕事にどこまで使えるかは、読みたいところだけを読むこととか、時間的なこととか、手書きかどうかにもよるかと思います。ただ、目が見えないことでそもそも生活が困るので、この装置は見た方向に文字があれば読んでくれるので、色々な情報が入って来ると思います。

こういう面でも、医療の現場が変わって来ると良いですね。話題は変わりますが、障害者権利条約が提唱した「合理的配慮」という考え方があります。今は、働いている障害のある方に対して、事業主は合理的配慮をすることが法律で義務付けられており、以前と比べると事業主も対応しようという感じになってきていると思います。現状では、なかなか対応してくれていない職場で働かれている方もいると思いますが、合理的配慮を職場に求めていく際に、どういう点に留意すると良いのか、これまでの経験で何かアドバイスはありますか。

ある意味、医師は医療現場の中では一番守られている立場かと思います。視覚障害があることに対しては、どういう方法をとれば自分でできるのか、自分の中でちゃんと整理できているかどうかが大切です。ここまでは自分でできるが、ここはこういうサポートがあったらできる、ここはできませんということの整理です。ただ、ここまではできるけども、ここはできませんという境目自体が、視覚障害を補うスキルとかテクニックにより変わってくるので、やはり情報を収集することが大事だと思います。

先ほどのような機器も含めてですね。

これを使ったらこれのできる可能性が上がるというものが、もしかしたらあるかもしれません。しかし、職場にはそういう情報がないので、まずは自分の障害の状況を正しく知って、それを補える方法を整理した上で、職場と話し合うのが良いでしょう。

障害による不便さを補うテクノロジーや機器について、今はどのようなところから情報を集めていますか。

ライトハウスも一つですし、実際に仕事の現場で使えるかとなると、当事者の集まりからの情報が有効ですね。「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」もその一つですし、一般就労だと「タートルの会」と繫がりをつくるのも良いでしょう。

「タートルの会」の情報発信はホームページですか。

ホームページもあります。また、定期的に年4回くらいの集まりもあります。特にIT関係の事務職の方も多いので、学べるところへの繫がりができたりします。公的な機関で視覚障害者にパソコンの指導をしてくれるところもあります。

そういう中で便利な機器の情報も得られるわけですね。

実際には、使ってみないと分からないものも多く、他の人がどうしているかは参考になります。

体験に基づく情報には、製品カタログでは得られないものがありますね。

合理的配慮を求める上では、目が不自由なことを自分の中で受け入れられているかどうかも、重要なポイントです。職場でオープンにするのに勇気が要るということも聞きます。

それは弱視の方の場合ですか。

弱視の方の場合には、オープンにすることで虐げられるのではないか、仕事ができなくなるのではないかと心配されていて、そのハードルは大きいということです。

「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」には、現在、医師は何名参加されていますか。

現職の医師は15名います。

どのような診療科で働かれていますか。

精神科が7名で最も多く、他にリハビリテーション科、総合診療科、内科、小児科、眼科、漢方内科がそれぞれ1名ずついます。その他に老人ホーム・盲学校理療科講師・大学非常勤講師を掛け持ちされている方が1名、老健施設で働かれている方が1名です。

視覚障害の程度はどうでしょうか。

ロービジョン(弱視)から全盲まで幅広いです。

全盲の医師は何名でしょうか。

8名います。

医師になってから病気や怪我で視覚障害になられる方もいますが、こうした中途障害の方の中には、弱視から徐々に視力が低下していく方もいると思います。そのような方に対して、将来に向けて何を準備すれば良いか、何かアドバイスがあればお願いします。合わせて、障害の状態によっては、それまでやってきた診療科ができなくなることもあると思います。そのような時にこの診療科を考えてみてはというものがあれば、お願いします。

視覚障害をもった年齢と、どのくらいの見え方かといった障害の程度、病気が進行する可能性が高いのかどうか、働かれている診療科の仕事の内容、職場の状況、そういったことで大分変わってくると思います。例えば、50歳、60歳代で見えにくくなってきているなら、いかに今の仕事で少しでも長く働き続けられるかが目標になるかもしれません。30歳代で家族もいるということであれば、これからも医師として働いていくためには、もしかしたら診療科を変えることも選択肢になるかもしれません。また、これ以上は障害の程度が進まない場合は、今の状態といかに付き合っていくかが課題となりますが、網膜色素変性症のように進行性で見えなくなる可能性がある場合は、どうするかの判断が迫られるかと思います。

具体的な事例もありますか。

視覚障害が進行する中で元の科から精神科に転科された先生、療養型リハビリテーション病院に転職された先生、漢方内科医になられた先生がいます。
職場環境にも色々あると思いますが、もし診療科を変えることも考えるのであれば、とことん目が悪くなってからでは大変なので、少し早めに準備されることをお勧めします。そういう可能性がある方は、まだ普通に仕事ができている頃から、早めにゆいまーるやタートルの会などに繋がりを持たれて、どういうタイミングで診療科を変更すると良いか、色々と情報を集められるのがいいように思います。便利なアプリや機械についても、完全に目が悪くなってからではなく、まだ見える時期に色々なことを知って、練習を開始しておくと技術の習得がスムーズかと思います。

もう一つ、視覚障害のある学生で医師を目指す方に対しても、何かアドバイスはありますか。ご自身は医学部在学中に視力を失われましたが、そもそも全盲で医学部に入られている学生はいるでしょうか。

私が知る限りではいないです。

医学部への入学を受け入れた以上、最終的には医師になれるよう教育していく必要が大学にはありますが、現状では大学の側に全盲の学生に対するスキルや経験も不足しているということでしょうか。弱視で医師を目指して医学部に進まれる方はいますか。

弱視の学生はいると思います。私がイメージするのは、いきなり全盲の方が医学部の壁を突き破るのではなく、弱視の方がたくさん医学部に進んでいくことで、視覚障害の方の医学部への門戸が広がっていくことです。弱視の方にも見え方は色々あるので、この場合にはこうして対応することができたという経験や情報を数多く残る形で蓄積し、大学側もこういう見え方の場合にはどう対処をすれば良いかが分かり、そのことで必ず道は広がっていくと思います。

現状では全盲の方は難しいけれども、弱視の方が道を開いていく中で、全盲の方にも門戸が広がることを期待したいということですね。本日は、とても有意義なお話を聞くことができました。有難うございました。

(2020年3月収録)

耳鼻科太郎医師のインタビュー

最初に、障害の内容についてお聞きします。

先天性の両耳の感音難聴で、100デシベル以上です。身体障害者手帳は2級です。

難聴であることは、いつ分かりましたか。

当時はまだ新生児スクリーニングは普及していなかったので、難聴が確認されたのは3歳の時でした。

補聴器をつけたのは、いつからですか。

難聴であることが分かった3歳からです。

学校ではどうでしたか。

小中高では、全校集会の話は分からずに寝ていました。教室での先生の話は、一番前の席なら分かりましたが、質疑応答になると分かりませんでした。

今は補聴器をつけていますが、口元を見ないでも聞き取れるのですか。

やはり口元を見た方が良いです。見るのが80%くらいです。感音難聴の特徴は、聞き取りが悪いということで、よく間違えて発音していると言われます。

大学では、最初は臨床検査技師を目指されたのですね。

大学に入って4年間は臨床検査の勉強をし、その後、改めて医学部を目指して、浪人して別の大学の医学部に入りました。

どうして医学部に行こうと考えたのですか。

大学4年生の時に「ことばを育む会」の依頼で人生初めての講演をしました。その時は、自分の経験談だけでしたが、予想以上に質問が多くて、医学の知識をプラスして説得力のある話ができればと思い、医師を目指すことにしました。

そこからまた6年間の大学生活が始まるのですね。医学部では講義はどのように聞いていたのですか。

補聴支援システムは使用せず、いつも前から2~3番目の席で講義を頑張って聞き、分からなかったところは友人または先生に直接聞いていました

医学部のカンファレンスの際は、どうされたのですか。

耳鼻咽喉科ではノートテイク、ロジャーを使用しましたが、常に使う感じではありませんでした。聞こえなかったところは後で他の学生に教えてもらいました。何でも自分でどうにかしないといけないので、大変でした。

難聴で医学部に入ることに対して、大学側に何か配慮を求めたりしましたか。

大学に対しては、医師の免許を取れるかどうか確認しただけです。大学に入ってからも、耳が聞こえないので講義をどうして欲しいとかはお願いしませんでした。聴診器は使えないのでどうすればよいかなどは、その都度担当の人に聞いて、対策を教えてもらいました。

入学した大学には、過去に難聴の方が入学したことはあったのですか。

私が初めてだったので、大学でも色々と考えてくれたようです。ノートテイクのパソコンを貸してくれたり、補聴援助支援システムの導入についても検討してくれました。

実習では聴診器を使う機会もありますが、聴診器が使えなくても大丈夫でしたか。

心電図やエコーの画像でカバーしました。現在働いている病院の耳鼻咽喉科でも、聴診器を使うことはありません。必要なときには他の検査でカバーしています。

耳鼻咽喉科に進むことは、いつ決めたのですか。

初期研修1年目の終わり頃に決めました。それまでは小児科かと思っていました。

なぜ小児科だったのですか。

2回目の大学であり、親の経済的負担を減らすためにも奨学金を希望しました。奨学金を借りるのには、医師が不足している小児科、救急、産婦人科、麻酔科が考えられました。ただ、小児科は病院実習をする中で聴診器を使う機会が多かったので、ちょっと難しいかなと感じました。子供と接する中で、やはり自分と似たような人を助けたいという思いから、耳鼻咽喉科を目指すことにしました。

初期研修のときには、いろいろな診療科を回るので、聴診器を使う機会もあったのではないですか。

聴診器は使わなくても、超音波とかCTとかレントゲンとか問診でカバーできました。聴診器を使うことが頻繁に必要な循環器内科は、初期研修でも回りませんでした。難聴の医師の中には音を波形に変換する聴診器や補聴器に直接音を飛ばす聴診器を使っている方もいます。

そういう聴診器があるのですか。

聴診器につけて音を補聴器に飛ばすタイプのものもあります。私は耳鼻咽喉科なので無理して聴診器を使いませんが、もし循環器内科に進むなら、頑張って自分に合った聴診器を探したと思います。

手術の時はどうしていましたか。

初期研修の病院では、いろいろ対策をしてくれて、補聴援助システムのロジャーを使ったり、口元が見える透明マスクを使ってくれました。透明マスクは曇るので、手術用には向きませんでした。

補聴援助システムのロジャーについて、もう少し説明してください。

話し手にマイクロホン付きの送信機をつけてもらい、そこから補聴器に電波を飛ばします。いまの病院でも手術の際には使っています。

以前からあるものなのですか。

私が高校の頃からあると思いますが、知らない人は多いです。私も知ったのは、大学に入ってからです。

医療以外の場面で使われているものを、手術室でも使っているのですか。

そうです。勉強会の時にも使いますし、飲み会の時にも使えます。

送信機は何個ぐらい使うのですか。

手術のときには、中心となる執刀医につけてもらいます。カンファレンスのときは、3~4個をテーブルの上に置いておきます。発表する人と質問する人が使ってくれればよいのですが、使ってくださいとはなかなかお願いもできません。

耳鼻咽喉科内でカンファレンスをするときも、ロジャーを使うのですか。

使います。ちょっと聞こえないこともありますが、教えてもらったりして、多少時間はかかりますが理解できます。

患者さんとのやりとりは基本的には一対一ですが、補聴援助システムを使ったりするのですか。

使っていません。患者さんがマスクをしていると聞きとりにくいので、マスクは外してもらったり、ちょっと大きい声で話してもらったり、聞き返したり、看護師に聞いたりします。

マスクをしてくる患者さんもいますからね。

耳鼻咽喉科では口や喉の診察が多いので、何も言わなくても患者さんはマスクを外しますし、外来の看護師が同席して手伝うので、分からないときは看護師から教えてもらいます。

いま病院で使っている補聴援助システムは、病院が用意してくれたものですか。

障害者手帳を使って自分で買いましたが、頼めば病院側でも買ってくれると思います。

「合理的配慮」の一つですね。

ロジャーがあっても、医療従事者全員が理解しているわけではありません。耳鼻咽喉科の先生と病棟の看護師は分かってくれますが、他の診療科のスタッフが理解しているわけではありません。

実際に使って見せれば、知ってもらう機会にもなりますね。

そうなのでしょうが、病院は忙しくて暇がないため、そういうことを知ってもらう機会も作りにくいです。

忘年会のような仕事以外の機会に使ってみるのも良いのでは。

私は使いませんが、忘年会などで使う人もいるようです。患者さんからアドバイスを求められた場合には、こういう道具があって、こうした使い方もできると伝えています。

患者さんへの情報提供ですね。

そうです。ロジャーを作っている会社の方や、実際に利用している難聴の医師からも情報を得て、それを患者さんに伝えています。

難聴の医師の方は、耳鼻咽喉科になる方も多いのですか。

私の知っている限りでは、耳鼻咽喉科は2~3人です。それ以外は、リハビリ科とか皮膚科とかいろいろですね。

難聴の医師の方にも、聞こえ方には違いがあると思いますが、どんな方がいるのでしょうか?

私のように補聴器を使ってある程度聞こえる人のほか、補聴器を使ってもほとんど聞こえず手話を使っている人や、人工内耳を埋め込んで特段支障なく聞こえている人もいます。

人工内耳をつけると普通に聞こえるものなのですか。

人工内耳への適応があるので、人によって違います。適応が合う人では、補聴器とは比べ物にならないほどよく聞こえるようになります。

適応を確かめることが大事なのですね。

補聴器の調整を適当にしている人も多いので、まずは診察でしっかり聴力を見直すところから始めます。

正しい使われ方をしていない方も多いのですね。

私も補聴器を両耳にしたのは3年前です。それまでは片方の耳だけでした。

なぜ、片方だけだったのですか。もう一つの耳は補聴器をつけなくても聞こえていたのですか。

全く聞こえていませんでしたが、いじめに遭うから片方だけにしていたのです。周りの子供たちが興味を持って触って来るのが嫌だったので、目立たないように片方だけにしていました。今は、皆さん気にせず両耳にしています。

最近では、音楽を聴くためにコードレスイヤホンを両耳につけている人も多いので、そんなに珍しくもないですよね。

医学的にも両耳につけるのが正解なので、今は両方つけるように指導しますが、私の子供の頃は両方つける考えはあまりなかったです。

両耳に補聴器をつけてみてどうですか。

今までとは違うと感じています。試さないとわからないですが、変えてみて良かったと思います。

技術開発により、いろいろな製品も出てきているのでしょうね。

補聴器にも、騒音下で聞く場合や静かな環境下で聞く場合など、環境に応じたプログラムもあります。昔はアナログでしたが、今はデジタルで調整もいろいろとできます。

随分と聞きやすくなってきたのでしょうね。耳鼻咽喉科の医師として、より使いやすい補聴器の開発に携わることはありますか?

開発は企業がすることなので、耳鼻咽喉科の医師は開発に携わることはあまりありません。難聴の医師であれば被験者になることはあるかもしれません。

耳鼻咽喉科の医師が被験者なら、当事者の立場でもあり、専門的な意見も言えるでしょうね。ところで、携帯電話は使われていますか。

携帯電話も使いますが、周りがうるさい中では無理なので、静かなところに移動して電話します。どうしても聞こえにくい時は、メールしてもらうように伝えます。

電話が使えるなら、病院内ではピッチ(院内携帯電話)で連絡を取り合っているのですか。

ピッチも使っています。ピッチで聞こえにくい場合は、電子カルテのパソコンにメールしてもらようにします。

メールで送ってもらうことも多いのですか。

基本的にはピッチで済んでいて、メールになるのはごくわずかです。薬など間違ってはいけないものは、正確を期すためメールで送ってもらいます。聞き違いを避けるためには、復唱して確認します。

ここでやりとりしていても、普通に会話ができていますね。

分からないでしょうね。それだけに誤解されやすいのです。この部屋は静かで、一対一なので会話もしやすいですが、周りがうるさいと聞こえにくいです。人の印象は初対面で決まってしまうので、普通にしゃべれると大丈夫だと思われてしまいます。その状況がいつも同じではないのですが、なかなか分かってもらえません。

皆さんに理解してもらうには、どうしたら良いでしょうか。

自分でどうにかしなければなりません。ロジャーを使ってくださいとか、ゆっくり話してくださいとか、相手に簡単に言えるものでもありません。私たちもプライドがありますから、耳鼻咽喉科として働いていく上で最低限必要な周りの人には、しっかりと説明します。今の職場では、最初に耳鼻咽喉科の責任者の先生が、私のことをスタッフに伝えてくれたので、手術の時も看護師が色々とやってくれて、聞こえやすいようにマスクも外してくれます。そういうことは有り難いのですが、それを自分から言うのはなかなか大変なんです。

上司から言ってもらうのが一番良いのでしょうね。

自分が働いていくことで、難聴者が働きやすい病院ということになっても、別の難聴の人が医師として働く場合、同じ働き方になるわけではありません。障害者差別解消法ではこういうことが求められると言っても、なかなか難しいかもしれません。私も医師になって研修1年目は結構大変でした。ストレスも溜まるし、聞こえないもどかしさもありました。

そうした課題を乗り越えるためには、どんなことが考えられるでしょうか。

一番有難いのは音声を文字に変換するソフトですが、専門用語もあるので、医療の分野でどこまで実用的なものができるかですね。後はストレス発散することです。積極的に質問したり、自分から聞きなおすことも重要だと考えます。

医師の世界にも「働き方改革」が問われる中で、記録をつける負担を軽減するために、口頭で話したものが文字に変換できれば良いとの意見もあるので、これから実用的なものも出てくるのでしょうね。

そう願っています。

難聴の患者さんにも、同様のことが言えるのではないでしょうか。

耳鼻咽喉科医としては、耳の機能の向上のためには、できるだけ耳を使ったほうが良いという意見もあります。

診療に要する時間は、他の医師に比べて長めなのですか。

そんなに長くかかることはありません。

難聴のある医師として働いていく中で、悩んだりすることもあるかと思いますが。

病院は時間との勝負なので、普通ならもっと早くできるのにと言われたりすると、難聴のある者はのけ者にされていると思いがちです。実際には、自分にもできることはあるので、耳鼻咽喉科でできることをやろうと考え方を変えました。救急とか数秒を争う職場では自分を生かせないので、自分のキャパシティを見定めてやっていくことが大切だと思います。私は楽観的で、どんなことがあっても自分で何とか乗り越えていくタイプです。怒られても物事を良いように捉える生き方の中で、これから医師を目指す若い人たちの話を聞いてあげるのも良いかなと思います。

難聴で医師を目指している若者に対して、何がアドバイスはありますか。

医師になっても、仕事が合わなかったり、気を使いすぎたりして疲れてしまう人もいるかと思います。特に大学病院とか総合病院では、いろいろな診療科との連携も必要なので、難聴の方はビクビクするかと思います。タイムラグが生じて面倒臭い、何度話をしてもわからないと誤解されるなど、コミュニケーションの難しさはあります。どこの病院もコミュニケーションは特に求められます。少し小さい病院であれば難聴のことを理解していただけますが、大学病院レベルの病院になれば理解してくれる人も限られてきます。自分から積極的に対策を取れる人は大きな病院でも良いかと思いますが、できるだけ周りの人に理解してもらい、ゆっくりとマイペースで勉強したい場合には中小病院を選択するのも良いかもしれません。大学病院レベルであればもちろん勉強になります。最終的には、働きたい病院で何を一番学びたいのかが重要と考えます。一人ひとりに合った働き方を見つけることが大切です。

最後になりますが、何か大切にしている言葉はありますか。

「一日一生」という言葉です。明日死ぬかもしれないのだから、一日を一生懸命生きろということです。本当にやりたいという強い志を持ち、時間がかかってもいいから、自分でやりたいことを一生懸命にやっていけば、ぼやっとしていた夢も明確なものになってきます。努力した分だけ、自分の夢に近づけていくというのがベストだと思います。夢を持っているだけでは、実現されるものではありません。私自身、みんなが社会人として働いている時に、自分だけ勉強していて虚しい感じもしましたが、遠回りしたけれど一番やりたい仕事をやれて、今はやりがいもすごくあります。

耳鼻咽喉科の医師になったことで、夢は叶えられたということですか。

夢は叶えたけれど、今はまた別の夢があります。コミュニケーションの点では、最初から聞こえない子供が一番大変です。補聴器である程度聞こえる人や中途失聴者の場合は、言語をある程度獲得できますが、聞こえなければ真似することもできず、言葉を話すこともできなくなります。言語獲得ができているのとできていないのとでは、全く違います。言語獲得ができないと手話になってしまい、閉鎖的な社会に生きていくことになります。世界が限られてしまうことは、とてもかわいそうなことです。だから、先天性難聴でも早い段階で補聴器や人工内耳を付け、少しでも言語獲得ができるようにして、やりたいことをエンドレスにやれるようにしてあげたいというのが、今の私の夢です。

小さい時に言語獲得できるようにしてあげることが大切なのですね。

私のように3歳からだと本当は遅いのです。相当な訓練が必要になります。もっと早くから補聴器をつけて、補聴器を調整したほうが、みんなと同じレベルになります。私の場合は、両親がすごく言語訓練をしてくれたので、こうして発音することができますが、普通だったら発音も悪くなっていたと思います。

今の時代は、そういうことがきちんとできるのですか。

医師、言語聴覚士やお父さんお母さんの考え方次第かと思います。

言語獲得の機会があることを知らずに言語獲得の機会を失うことがないよう、支援していきたいということですね。

そういう役割はたくさんあると思います。まだ専門医も取っていませんから、今は普通の耳鼻咽喉科医として一人で何でもできるようになるのが最低の目標です。

それから耳鼻咽喉科の専門医の資格も取るのですね。

最終的には、小児の難聴のスペシャリストになりたいと思っています。

それは小児科のサブスペシャリティですか。

そうです。その中で、私のように医師を目指したいという子供が出てくるのが、一番の幸せかと思います。自分が治療した子供さんが元気で育ってくれるのは、嬉しい思いです。そのためにも、難聴についての対策をもっとアピールしていこうかと思います。講演会も積極的に受けていますし、原点に帰る瞬間でもあります。

是非、その夢も叶えてください。本日は有難うございました。

(2019年12月収録)

masao医師のインタビュー

子供の頃は、どんなお子さんでしたか。

人間とのかかわりよりも、機械とりわけ車や乗り物が大好きな子供でした。病気のある人や障害のある人のことを考えたこともありませんでした。

病気になったのは、いつ頃ですか。

医学部5年生の時に、突然、左足の付け根の大腿骨頭が痛くなったのが、病気との付き合いの始まりでした。

何かきっかけはあったのですか。

トライアスロンの練習をしようと思って、5月のゴールデンウィークに長い距離を走り込んでいて、1日走った帰り道に左足がギクッと痛くなりました。トレーニングのし過ぎかと思い様子を見ましたが、次の日も少し動かすと痛くなることが続くので、おかしいと思って大学の病院を受診しました。レントゲンを撮っても異常はありませんでしたが、何かおかしいのでMRIを撮ってもらったら、診断がついてびっくりしました。

MRI検査で診断がついたのですね。

当時は、MRIは大学病院ぐらいにしかありませんでした。今と違って解像度も悪いのですが、それでも異常が見つかりました。幸か不幸か早期発見ができたので、一時休学して治療に専念することになりました。

どのぐらい休学されたのですか。

コア・デコンプレッション(減圧手術)術後ですから、数カ月くらいですね。退院してからは、松葉杖をついている状態で通学して授業に出ました。休学中で授業に出られなかった分は、友達からノートを見せてもらって何とか単位も取れ、留年せずにすみました。

学生生活の中で、困ったことはありませんでしたか。

松葉杖をついた状況だと、大学の中なら良いのですが、実習で外部に行く時は大変でした。自転車もこげないので、松葉杖で時間をかけて行くしかありません。普通なら歩いて15分のところを、松葉杖で1時間ぐらいかけて歩いていくような状態でした。また、立っていなければならない実習の時は、松葉杖を使って右足で片足立ちしていました。とても疲れましたが、座っていて良いとも言ってくれないので、立っているしかありませんでした。

悪いほうの左足は、床に着けることもできなかったのですか。

最初のうちは、荷重をかけずに浮かせるようにしていました。その後は、体重をかけられるようになりました。松葉杖も、そのうちに少し短い杖に変えていきました。

同じように松葉杖を使う学生はいませんでしたか。

いなかったですね。

学生同士での助け合いはありましたか?

ほとんど友達の助けで何とかしました。天気が悪いと傘もさせないので、車を持っている友達が乗せてくれたりしました。

大学側のサポートは何かありましたか?

ほとんどなかったです。エレベーターがない建物では、松葉杖を使って3階ぐらいまでは平気で階段を上り降りしました。自分から大学に配慮を求めることは考えず、ないものは自分で何とかするしかないと考えていました。

トライアスロンもやられていたくらいだから、体力もあったのでしょうね。

階段も腕で押し上げてお尻で一段ずつ上がればいいくらいの感覚でいました。

医学部を卒業した後はどうされたのですか。

卒業後は大学の医局に残る選択をしたので、整形外科にストレートで研修に入りました。その後に、ローテートで幅広くいろいろな研修が受けられる病院に出ました。一時期は脚の状態も良かったのですが、その後再発して悪くなって、杖を使ったり、再手術で前方回転骨切り術を受けたりということが、ローテート研修の間にありました。

ローテート研修というのは、どのくらいの期間だったのですか。

現在の初期研修と同じく2年間でした。当時のローテート研修は、現在の初期研修とは異なり臓器別の研修でした。内科系だと消化器、循環器、呼吸器といった分野を回り、外科系に行く人は麻酔科が必須でした。

最初は整形外科を選ばれたわけですが、その理由は何ですか。

もともと自動車とかメカが好きで、工学部に行って自動車を作るのが夢でした。中学生のときには、ハイブリッドカーのようなイメージをノートに書きためたりする生徒でした。ただ、高校の進路指導の先生から、「女子が工学部に行ったら就職の口がない、資格を取れるところに行きなさい」と言われ、取り敢えず資格を取るために医学部を目指すことにしました。医師になったら憧れのポルシェ911に乗れるかも、という下心もありました。物理が大好きだったこともあり、医学部の中でも一番メカにかかわれる科が整形外科で、人工関節など器械の研究もできるという思いで整形外科を選んだというのが本音でした。

大学に入る前から、医学部なら整形外科という思いだったのですね。

世のため人のためとか、病気の人を治したいという気持ちではありませんでした。病気は苦手だし、何か怖いという印象がありました。病気になって、整形外科にお世話になった恩返しという理由でもありません。

ローテート研修に出て、他の診療科も見て考えは変わりましたか。

内科で最初に行ったのは循環器で、たまたま最初に割り当てられた患者さんが心筋梗塞で重症な方で、あれよあれよという間に亡くなってしまい、循環器は恐ろしいという思いが強くなりました。次に消化器に行ったら、モニターを見ながら内視鏡を操作するのが苦手で、「患者さんが迷惑するので見ているだけで良い」と言われ、自分は消化器も向いていないのかと。おまけに内視鏡で粘膜のぬめぬめ動いている風景を見ていると気持ちが悪く、正直言って苦痛でした。

内科は向いていないということですね。

ところが麻酔科に回った時は、とても面白かったのです。麻酔科では、手術の間に患者さんを呼吸・循環動態を安定した状態にして、痛みもなくしっかり寝ていただいて、無事に手術が終わっても、患者さんは私たちのことを覚えていない。直接感謝されることもない。そういう影の存在、黒子みたいなものに凄くやりがいを感じて、麻酔科医になろうかと思いました。内科や外科と違って、患者さんや家族の生活背景に踏み込むといった対人関係のわずらわしさもほとんどありません。ローテートの研修では麻酔科は6カ月で終わりましたが、その時の経験が整形外科に戻ってから大変役に立ちました。

どういうことですか。

当時は麻酔科医が足りず、外科系の手術では診療科の医師が麻酔をかける必要があったので、麻酔、特に全身麻酔がかけられる医師は大変重宝されました。気がついてみると、整形外科にいながら3分の2くらいは麻酔の仕事をしていました。特に、小児とか合併症のある患者の大きな手術や、体位が特殊な脊椎の手術の場合は、ほぼ私が麻酔を担当する感じでした。その後、異動した病院でも、麻酔科の先生が来ると整形外科の仕事がメインになり、麻酔科の先生が辞めると再び麻酔の仕事をやるような形で、付かず離れず麻酔の仕事をしてきました。二次救急をやっている中規模の病院では診療科に関わらず1人で当直し、全ての救急対応が必要になりますが、麻酔の技術があると緊急の時にもすぐ対応できるので、すごく役に立ちました。

早い時期に麻酔科との出会いがあったことが、今につながっているのですね。

麻酔科の指導医が人間的にも魅力的な方で、仕事以外の趣味も幅広く奥深い方で、語学も堪能でした。手術室の中で英語の勉強をされたり、チェロを練習されたりしていました。何年後かに会った時は、津軽三味線の弾き語りも聞かせてくれました。国際会議でお会いした時には朝鮮の代表団にいきなりハングルで話しかけて、皆を驚かせました。オフタイムではカヌーに乗ったり、いろいろな人生を楽しむことも教えてくれた方でした。

いろいろと影響受けたのですね。

麻酔科の研修中は、あまり歩かず足に負担をかけなくても済むように配慮していただき、ほぼ座ったままで業務ができました。自分で薬品や点滴ボトルを取りに行かなくても手術室の看護師が取ってくれるなど、先回りして動いてくれました。そういうことをで、周りからも大事にしてもらえました。

そういう配慮のある病院で働ければ良いですね。

そうですね。

ローテート研修が終わった後は、どうされましたか。

本格的に整形外科の中期研修を受けようと思いました。そんな時に、以前お世話になった先輩医師から、整形外科の研修をするならこの病院がお勧めだと教えていただき、関東地方の病院に行くことになりました。

その病院で専門医をとられたのですか。

整形外科の他に麻酔科の仕事もしていたこともあって、整形外科の症例数が足りなかったのと、私自身のライフイベントが重なり、その病院では専門医の受験準備ができませんでした。10年くらい経って再び地元の病院に移ってから、こちらで専門医の資格を取りました。通常は6年目くらいで専門医を受験するので、受験した人の中ではおそらく私が最年長だったと思います。そこでも相変わらず、整形外科と麻酔科の二足のわらじでやっていました。

整形外科の中では、何か得意とする分野はありましたか。

大学5年の時に大腿骨頭の手術をして、その後は大事に使うことで、それなりに状態も良かったのですが、先々のことを考えると、あまり負担がかからないほうが良いので、整形外科の中でも座って手術ができる分野をやろうと考えました。整形外科のサブスペシャリティには、脊椎外科とか関節外科とか外傷とかいろいろありますが、手の外科という分野もあります。顕微鏡やルーペを見ながらの細かい作業ですが、基本的には座ってする仕事です。長時間の手術もありますが、ほぼ座り仕事で腕力も必要ありません。私は小柄で手も小さいので、細々としたことをするには適性もあるかと思い、手の外科を選択しました。

整形外科は、力仕事なんですか。

研修中に骨折の修復をしたり人工関節を入れたりする時に、もっと力を入れて引っ張れと言われました。当時は、握力も40kgくらいありましたが、それでも背の高さとか、手の大きさといった物理的な問題で、女性は不利です。手術台の高さも執刀医に合わせて調節されるため、助手は足台に登らないと高さが合わせられません。背が高い先生に合わせると、背が低い私は足台を二段三段に積んでいて、時々足台が崩れたりもしました。

手の外科の勉強は、どちらでされたのですか?

手外科学会の中でも魅力的な先生のいる病院に行って、1年間ほど専門研修を受けました。日本手外科学会の専門研修制度がなかった時代でしたので、飛び込みでお願いして研修を受けさせていただきました。症例が多くて朝から晩まで予定手術があって、家に帰ったら呼び出されて緊急手術をして夜が明ける、といったハードな日々でした。そうはいっても、その病院でも脚に負担のかかるような業務(例えば脱臼の整復など)は人手がある時はやらないで済むように配慮してもらえました。研修後は前の病院に戻って、指の切断の再接着などをやりました。一般病院なので、手の外科以外にも骨折の治療や人工関節、脊椎といった普通の整形外科の診療を一通りやっていました。その後、家庭の事情で地元の病院に戻ってからも、整形外科と麻酔科を中心に通常勤務し、子供も3歳になったので当直にも入りました。

そのように働いてきた中で、新たな病気が発症したのですね。

サルコイドーシスといって、一般的には肺とか心臓の病気、あるいは眼の病気という認識かと思いますが、私の場合は初発症状が神経麻痺症状で、最初は右手が動かなくなりました。

利き手の右手ですよね。

利き手なので、これは困ったと思いました。最初は診断がつかなかったのですが、右手は使えないけれども左手は使うようにして、できる範囲で手術室にも入って、筋鈎で引いたり、吸引管で吸ったりという助手をしました。人手がない中で、どうにかこうにかやっていました。

手の外科の仕事はどうなりましたか。

手の外科のように細かいことは、両手を使わないととてもできないので、できなくなりました。そうこうするうちに、足の方も麻痺が出てきて、最初は片足だったのが両足に力が入らなくなってきました。そうなると立ち仕事の力仕事はできないし、手を洗った清潔な状態でどこにも触らず手術室に歩いていくこともできないため、手術もできなくなりました。外来で怪我した人の傷を洗って縫う程度の簡単な処置は清潔手袋をつけるだけでもできますが、正式な手術には入れなくなりました。それでも麻酔科はやれるということで、病院の方で配慮してくれて、手術室専用の車いすを買ってくれました。

どんな車いすですか。

小さな後輪が付いた6輪の手動の車いすで、小回りが利くためその場で一回転できるものです。手術台と麻酔器やモニターの間に入って作業をするには回転半径が小さいことが最低条件です。ただ、出来合いの通常型製品でしたので、後ろについている介助者用のハンドル・キャリパーブレーキが邪魔で、各種医療ガスのホースに引っかかったり、麻酔カートに当たったりする不都合がありました。予算があれば、介助者用ブレーキのないオーダーメイドの車いすを用意してもらうことをお勧めしたいです。

整形外科の外来は、どうされたのですか。

診察室に座っていれば患者さんが来るので、外来はできました。幸い左手は力が入るので、それで診療はできます。もっとも、電子カルテの入力をするのに片手だとスピードが遅いし、複数のキーを同時に押せないなどの不便はあります。音声入力を使ってみましたが、滑舌が悪いようで言葉がうまく認識されませんでした。

お聞きしている限り、滑舌が悪いようなことは全くないですが。

音声入力も駄目だったので、病院に事務補助の職員を1名つけてもらいました。その点はずいぶん配慮してもらったのですが、やはり医学用語に不慣れでうまくいきませんでした。整形外科の診療で使う医学用語の細かいところまでは、難しかったようです。

今も右手は力が入らないのですか。

指が普通には伸びずに開いたり閉じたりもできないのですが、一つの指でキーを押すことはできます。腕を上げるのも、肩から上には上がりませんが、下の方のことならできます。

可動域が限られているのですね。

力が入らないので、ドライヤーも頭の上に持ち上げられないです。、ペットボトルを持っても500ミリリットルがいっぱい入っていると口元まで持ってくることができません。

左手はどうなのでしょうか。

左手は普通に動きます。ただ、感覚障害はあります。特に固有覚(どこに自分の手があってどんな格好になっているか)が悪いので、常に自分の手元を見ていないと使えません。

発症した頃に比べて、症状は良くなったのですか。

多少は良くはなりましたが、全体的に力は入りません。このため、手動の車いすだと平らな場所では漕げますが、傾斜があると上がれないし、道路の水はけの勾配がついているとまっすぐ進めないので、屋外では電動アシストの車いすを使っています。病院内でも電動アシスト車いすだと楽ですが、スピードが出て本体重量もあるので、患者さんと接触事故を起こせば怪我をさせてしまうと思い、院内では使いません。電動アシストの車いすは前後が長いので、向きを変えるのには広いスペースが必要です。それで職員用の普通のトイレには入れません。

この病院では、どんなことをされているのですか?

いまは手術室に入ることはありません。麻酔科医もいるので、麻酔の仕事をすることもありません。私は、整形外科の外来一単位のほか、健診の問診や心電図の判定のお手伝いをしています。また、地域包括ケア病棟の患者さんを私を含め2人のドクターで担当しています。整形外科から移ってきた患者さんはもっぱら私が担当し、内科の患者さんはもう一人の内科のドクターが担当する形で分担しています。

後輩の医師の指導もされていますか。

初期研修ではいろいろな医師が教育を担当しますが、私は医療者のための写真の撮り方というのを担当しています。全体が分かる写真とか、左右が分かる撮り方だとか、基本的なことをスライドなどで楽しく説明しています。一般の病院では、大学病院と異なり写真を記録に残す習慣が定着していなくて、最初に診察したときにどんな状態だったか、こんなふうに腫れていたとか分かる写真がないことが、すごく気になっていました。記録写真を撮ると学会で症例報告するときにも役に立ちます。撮る際の患者さんの個人情報保護についても教育します。電子カルテ取り込み専用のカメラが救急外来をはじめとして主な場所には配置してあります。余談ですがセキュリティ対策で、個人のスマートフォンで写真を撮っても電子カルテには取り込めません。このほか自分の専門領域の電気生理では、神経伝導速度や筋電図について教えています。これも食わず嫌いであまり分からない先生もいるので、心電図と同じくらい親しんでもらおうと思っています。

この病院は、初期研修の基幹病院ですか。

基幹病院で毎年6〜7人の初期研修医を受け入れています。近隣の医療機関から初期研修医が1~3か月短期研修に来ることもあります。その他にも整形外科をはじめ、いくつかの科では専門医研修もできます。学生さんの実習も受け入れていて、初期研修医がどんなふうに過ごしているのか見てもらいます。様々な形で研修に来ているので、いろいろな機会に興味ある人には教えています。

学会での発表もされるでしょうが、学会ではどうですか。

これはもう、障害があることでたくさん嫌な経験をしてきました。いつも困っているのは、学会会場の最寄駅から会場までのシャトルバスに乗れないことです。観光バスのような乗降口が前方の一か所で狭くて急な階段になっているタイプです。車いすでは乗り込めません。会場の近くに宿泊して直接電動車いすで走っていけるようにすることで対処しています。幸い持続走行距離がフル充電だと10キロくらいはありますので。

学会の会場ではどうでしょうか。

最悪だったのは、予め車いすで口演すると伝えていたにも関わらず、立って口演する演台があって、その上にパソコンの端末があり、そこで自分で操作するスタイルだったため、手が届かずに操作できないわけです。しかも事前にスタンドマイクにしてもらうよう申し出ていたにもかかわらず、ハンドマイクしか準備されていませんでした。普通の方なら何ともないでしょうが、私の場合はマイクを握っても重すぎて口元まで持ち上げることができません。仕方がないので、その場に居合わせた知り合いの先生がマイクを持ってくれて、パソコンの操作をしてくれました。一瞬頭が真っ白になって、何を言ったかよく覚えていないような状況でした。

それは何年ぐらい前の話ですか。

ほんの2〜3年前のことです。その後学会の主催者から丁重なお詫びのお手紙が来ました。学会ではポスターセッションもありますが、紙のポスターだと上のほうは自分で貼ることができません。会場のスタッフがいれば良いのですが、時間帯によってはいないので、隣でポスターを貼っている先生に手伝ってもらったりします。手先の力が弱いので、ボードが硬いと押しピンが刺さらないこともあります。

手先の力はどの程度なのですか。

握力は左右とも5kg前後なので、ペットボトルの蓋も開けられません。飴などお菓子の小さな包装の袋を開けることもできないので、無駄な間食をしなくて済みますが。

握力がそれだけ弱いと、日常生活にも色々と支障があるでしょうが、何か工夫されていることはありますか。

いわゆる自助具を利用します。ペットボトルだったら、オープナーを使います。自分で車を運転しますが、ステアリングにカバーをつけて少し太くすると、力がなくても動かしやすくなります。

そういうものは、どこで探されるのですか。

市の福祉用具プラザが駅の近くにあります。そこでは用具の販売はしていませんが、実物があるので実際に使ってみる体験ができます。つまむ力の弱い人でも使えるトングのような形のお箸や、握りの太いスプーンなど様々なものがあり、自分に合ったものを探すことができます。どこで買えるのかも書いてあるので、自分で入手することができます。大体のものはそこで探しました。

そういう場所があるのはいいですね。ネットで探しても試せませんからね。

本当に自分に合ったものかどうかは、試しに使ってみないと分からないです。右手が動かなくなった時に必要に迫られてすぐ利き手交換して、左手で文字を書いたりお箸を使ったりしたので、そんなには困らなかったのですが、両手を使わなければならないものは不便ですね。

東京の水道橋にある公益財団法人共用品推進機構のオフィスには、そうした場合に役立つ道具がたくさん陳列されています。イベントで「片手で使える商品」の展示も行っています。

私も片手で紙に書く時には、紙を手で押さえなくても滑らないよう、紙の下に敷く滑り止めのシートを使っています。

これも福祉用具プラザで見つけたのですか。

そうです。非常に楽です。それからパソコンは、病院の電子カルテのパソコンではできることが限られますが、個人用のパソコンではいろいろ設定を変えることができます。同時にいくつかのキーを押す時にロックをかけておいて、個別に押したものを一連のものとして認識させる機能もあるので、利用しています。私の住んでいる市には、障害者パソコンサポートの組織があって、ボランティアスタッフが1回100円程度でパソコンの個別指導をしてくれます。各自の障害に合わせたパソコンの使い方について、例えばExcelを片手で操作する方法も、講師がつきっきりで1時間指導してくれたので、仕事の面で活用しています。

他にも皆さんに紹介できるものはありますか。

私は指先の力がないので、ボールペンのキャップも外すことができませんが、ノック式だと使えます。蛍光ペンにもノック式があって、それはとても重宝しています。

握力5kgではキャップも外せないほどなのですか。

握力というより摘む力、ピンチ力ですね。洗濯ばさみをつまんで開こうとしてもばねが強めだとお手上げです。

思いもかけないところにも、不自由な面があるのですね。

手術をしないのも、感覚や手先が悪いことで患者さんに危害があってはいけないからです。さすがに針は持てますが、手先の感覚はあてにできないので、エコーで確認しながらブロックや穿刺をします。

これからのことを考えると、例えばダヴィンチみたいな手術ロボットが手の手術でも使えると良いですね。

そうですね。日常生活の面では、これはいいねと思うものがたくさんあります。例えばマジックハンドも使っています。

どのような場合に使うのですか。

駐車場でパーキングチケットを取るときに使いますし、精密にできているので硬貨をつまんで入れるのにも使っています。コンビニで物を買うときにも、定番の商品は立った人が取りやすい場所に置かれていて、座っている人には手が届きませんので、コンビニのおにぎりを取るときには、マジックハンドを使って取ります。

マジックハンドは重たくはないのですか。

とても軽いです。もっともペットボトルのような重たいものは、もともと手の力が弱いのでつかんで取ることはできません。

車いすに取り付ければ、重たいものもとれるかもしれませんね。マジックハンドは高価なものですか。

2000~3000円程度で市販されています。私はリウマチ友の会で紹介されているのを見て買いました。会員以外の一般の人にも売ってくれます。ホームセンターで同じようなコピー商品を売っていますが、粗雑にできているし、ばねが硬すぎて力が弱い人には使えません。

ほかにはどんなものがあるでしょうか。

車いすのレバーには、ファックスのロールペーパーの芯をかぶせて使っています。ラップの芯でもよいのです。細いレバーに芯をかぶせることで太くなり、長さも長くなるので使いやすくなります。車いすでエレベーターに乗った時には、上のほうの階層ボタンには車いすに座った位置からだと届きませんが、そういう場合にはレバーから芯を外して、座ったままでも芯の先を使ってボタンを押すことができます。

なるほど。いろいろな知恵が詰まっているのですね。

いろいろな道具を使えば、それなりに自立していけるのかと考え、極力無駄な動きを省くことでやっています。患者さんを診察するときにも、例えば身体の反対側を見るときに、自分が反対側に行くのではなく、患者さんに今度は頭と脚を反対にして寝てくださいと言って、患者さんに動いていただきます。

病院の中では手動の車いすを使われていますが、通勤はどうされていますか。

通勤には、電動アシストの車いすを使って、電車とバスを利用しています。学会などで出張する際も、電動アシストの車いすを使っています。電動アシスト車いすを使う場合は、通常のタクシーには乗れず、福祉タクシーを使う必要があるので、逆に不便な面もあります。タクシーを使う可能性が高い場合は、あえて手動の車いすで行くようにしています。福祉タクシーは、通常は1週間くらい前に時間も指定して予約する必要がありますから、地方都市ではかなり難しいです。

最後に、同じような病気になった医師の方が医師の仕事を続けたいと思った場合、どのような道があると伝えたいですか。例えば産業医とかもあるかと思いますが。

私自身、産業医大で研修を受けて、産業医の資格も取りましたので、それもあるかとは思います。ただ、産業医には職場巡視という現場を見る業務があり、現場によっては車いすだと見られないところもあるでしょうから、不可能ではないけれど、制限もあるかと思います。

1人では難しいかもしれないということですね。

そのほか臨床以外の分野でも、病理の仕事など、自分のペースできちんと仕事ができる分野で活躍するのもあるかと思います。私は整形外科なので、正直なところ手術ができなくなったら自分の人生は終わったというくらい、本当は落ち込みました。それでも、現実には生活していかなければいけないし、他に取り柄もないということで、工夫してやってきました。業務としては健診にも関わってきましたが、一般の方々、病気や障害を持った方々の健康相談に応えていく活動は、病院に限らず市民活動のレベルでも考えられます。

どんな活動でしょうか。

例えば難病の患者さんの患者会の支援活動があります。昨年は成人1型糖尿病の患者会で、災害時に備える「防災カフェ」で当事者ができることを一緒に考える取り組みをしました。防災士の資格も持っていますので。また、行政の難病相談支援センターは医療機関の紹介や障害者総合支援法によるサービスに内容が限定されるため、医療に加えて生活・就労・学業を続けていくのに必要ないろいろな情報を提供するための難病情報ハンドブックを作っているところです。最近、厚生労働省はがんの患者さんが治療と仕事を両立していけるよう、事業所に配慮を求める啓発冊子などを作っています。それに比べると難病はまだまだ遅れていると感じます。こんな所にも自分の居場所はあるのかと感じています。ほかにもメディカルイラストレーション学会に入って、医学の挿絵の勉強もしています。左手を使えばスケッチも描けますが、いまやパソコンを使って絵を書くこともできる時代です。まだ上手ではありませんが、美術系の学校から直接プロになったグラフィックデザイナーやイラストレーターは医学の基礎知識がないので、医療者から見ると少し変な絵になってしまい勝ちです。医学の基礎的なことが分かっている医師で、多少の絵心があったら、トレーニングすれば医学雑誌などで自分達の活躍する場もあるかと思います。

整形外科の分野で本来の仕事ができなくなったときに、別の道に進まれる人もいるでしょうが、整形外科に役立つ関連分野で新たな道を探っているのですね。

いま公衆衛生の研究で大学院に通っています。学会などで発表していても、統計学的なところで、この分析のやり方で本当に良いのか自信がなかったので、きちんと科学的なエビデンスを示せるようになりたいと思い、大学院に入って勉強し直しています。

それは後輩の指導にも使えますね。

そう思っています。今の時代、大学も非常に配慮してくれていて、駐車場には障害者専用の区画を作っていただいたほか、スロープを設置したり、エレベーターのボタンの位置や電子ロックキーの位置も使いやすいように変えてくれました。

以前大学で勉強していた頃と比べて、ずいぶん変わったでしょうね。

すっかり変わりました。困っていることはないかと事前にヒアリングがあり、どういう経路で自分の研究室まで行くのかとか、どこを利用しますか(図書館など)とか確認され、例えば雨が降った日には職員用駐車場だと濡れてしまうので、本来は患者さんの使う駐車場のこの区画を使って、こういうルートだと雨に濡れずに行けますといったことまで、ちゃんとセットしていただきました。

それは学生支援室が対応してくれたのですか。

そうです。大学院生なので学生支援室です。講義についても、階段教室だと一番前の講師の目の前に机を置いてもらい、車いすのままで受講できるようにしていただきました。

大学院は何年目ですか。

4年間行くことになっていて、いま3年目です。

語学にもチャレンジされているようですね。

何でも面白がってやる方です。いろいろな国から来た患者さんが来院されます。英語ができる人はたくさんいるので、ほかの言語に力を入れています。少なくともお隣の国の言葉くらいはある程度できないと、とっさの時に困るかなと思って、ボチボチやっています。TOPIKに挑戦したいと思っています。

時間を捻出するのも大変ではないですか。

私たちはどうしても移動で時間とエネルギーを使ってしまうので、何かやろうとすれば寝る時間が減ってしまうところがあります。ほどほどのところで妥協することも必要で、あまり頑張りすぎないことが大事かなと思います。通勤電車の中で論文を読もうと思っていたら居眠りしていたということはしょっちゅうです。

それでも、相当頑張られているように見えますね。

これまでは、あまり甘えてはいけないと思っていたのですが、あまり厳しくキチキチやっていると結局疲れてダウンしてしまい、スタッフにも患者さんにも迷惑をかけるので、ほどほどにさせてもらっています。

ほどほどを大切にして、これからも医師として長く働き続けてください。本日は有難うございました。

(2019年12月収録)

EBドクター医師のインタビュー

最初に、先生の病気の症状について教えてください。

私の病気は、表皮水疱症です。皮膚は、主に表皮、真皮、皮下組織の3つに分かれていますが、表皮水疱症というのは、表皮と真皮をつなぎとめている接着タンパクを上手く作ることができない先天性の病気です。私には生まれた頃から、ちょっとした外力で表皮がずるっと剥けてしまったり、爪が何かに引っかかるだけで簡単に剥がれてしまうといった症状がありました。重症な方では、全身の皮膚がただれたような状態になって、1歳未満で亡くなってしまうこともあります。一方、軽症の方では、夏だけ足の裏の皮がめくれる程度で、日常生活にはあまり支障がないこともあります。

子供の頃だと、遊んだり運動したりするのにも気をつけなくてはならない状況だったのでしょうか。

その通りです。例えば私の場合は、ちょっとぶつかるだけで皮がめくれてしまっていたので、自転車の練習などは相当親が気を遣ってくれていたようです。また、傷ができた時の対処法などについて、学校の保健室の先生に事前に依頼もしてくれていました。その他、柔道の授業はずっと見学していました。

年齢が上がるにつれて、少しは症状が改善したりするものなのですか。

病型によっては、良くなっていくタイプもありますが、私の場合は残念ながら少しずつ悪くなっていきました。中学や高校の多感な時期にどんどん傷跡が増えてくることで、整容面でのコンプレックスを感じて、半袖を着れないなど、皮膚を隠してしまうような状況でした。

いまは見ていても全然わかりませんが、生活の仕方や注意によって、症状の悪化を防ぐことはできるのですか。

基本的には外力を避けることしかないです。私の場合、ある時期から全身がすごく痒くなってしまい、掻くことで傷がたくさんできてしまい、中学高校の時期に急に悪くなってしまいました。それがなければ、もう少し調子は良かったかもしれません。

私たちが想像できないような、日常生活の不便さはありますか。

一つは、整容面の問題です。例えば爪の形が悪いので人前に出るときに爪を隠す、半袖を着られず年中長袖を着る、プールや温泉にもなかなか入ることができないといった、ちょっとした不便さは感じます。私の場合は、それ以外ではあまり不便を感じませんが、私よりも重症の方では、指がグーの状態で癒着してしまう方もいます。そのような方の場合は、スプーンを持てないとか、ドアノブが握れないといった苦労をされているようです。

大変ですね。ところで、医師を目指そうと思ったのはいつ頃でしょうか。

私はもともと、医師を目指してはいませんでした。ただ医療系の仕事について、自分の病気と似たような病気で困っておられる方の役に立てればいいなと、考えていました。親が薬剤師ですので、私も薬剤師になって特効薬のようなものの開発に携わることができればと思っていました。ところが、ラッキーなことに学業の成績が伸びてきて、医師という選択肢もできてきました。患者さんと直接接して自分で治療方針を決めることができるため、医師を目指したという感じです。

それはいつ頃のことですか。

小さい頃から医療関係の仕事に就ければ良いなと思い、自分なりに一生懸命勉強していましたが、成績が急に伸びたのは高校2年生の時でした。過度なストレスは避けたかったので、自分自身をあまり追い詰めないよう注意していたように思います。

合格して、今度は医学部で勉強をしていく中で、自身の症状との関係で難しいことはありましたか。

一つ目は解剖実習です。解剖実習に用いるご遺体は、腐敗しないよう特殊な液を使っているため、特有の匂いがすることに加え、長時間暑い中で白衣を着て作業する必要があったため、腕の皮膚の症状が悪くなったりしました。二つ目は学生同士で聴診器を当てたり、エコー検査を行ったりする実習です。私は自分自身の肌を露出したくなかったので、同期の人たちにそのことを伝えて、被験者役を代わってもらったりしました。三つ目は手術場での実習です。手術場で着る術衣は、通常の場合、半袖です。私は腕にたくさん傷があり、人に見せたくないという気持ちがあったことに加え、感染リスクという観点から、長袖のガウンのようなものを着て実習を受けさせていただきました。事前に担当してくださる指導医の先生に相談しておけば、親切に対応してくださると思います。

大学の側は、先生のような症状があることに対して、教育の中でも比較的に柔軟に配慮をしてくれたということですか。

おそらく依頼すれば、どうとでも対処してくれたのではないかと思います。基本的には、私自身もしくは同級生、直接指導してくださる先生といった、小さなコミュニティ内だけで対処できるような内容だったので、その都度臨機応変に対応できました。特に不都合はなかったように思います。

実習では配慮が必要だったようですが、実習以外の講義などではどうだったでしょうか。

座学に関しては、全く問題なかったです。

ちなみに、その頃は自宅から通われていたのですか、下宿や寮に入られていたのですか。

最初2年間は自宅から通っていました。3年生からは下宿して一人暮らしをしました。

皮膚科を選択された理由はどういうものでしょうか。

自分自身の病気について知らないことがたくさんあったこと、そして同じ病気で苦しんでる人の役に立ちたいと中学高校の頃から考えていたので、医学部入学当初から一貫して皮膚科医になりたいと考えていました。ただ、初期臨床研修中に様々な科で研修させていただいた時に、循環器内科がすごく魅力的で、循環器内科医になりたいと思った時期がありました。医学生の頃から親しくさせていただいていた皮膚科の教授にそのことを相談したら、その教授が「あなたは皮膚科医になるために生まれてきたようなものだ。循環器内科が楽しいというのは分かるけれど、皮膚病で苦しんでる人たちのことを分かってあげられるのだから、皮膚科医になりなさい。」と言ってくださったのです。普通、教授は自分の元(医局)で働かせたいのですが、その先生は「あなたが皮膚科医になるのだったら、しっかり勉強できるように、私が表皮水疱症についてしっかり勉強できる大学を紹介してあげる」と言ってくださいました。それで私は出身大学と違う別の大学の皮膚科に入局し、そこで皮膚科学を学ぶことになりました。

その大学は、皮膚科では進んでいたところなのですね。

その大学の教授は、表皮水疱症について日本の第一人者だと思います。

ほんとに良く考えて紹介いただいたのですね。

本当に感謝しかないですね。循環器内科医になっていたら、また人生が変わっていたと思います。

皮膚科にもいろいろな患者さんが来られると思いますが、そういう患者さんを診られてどう感じますか。

私自身は正直に言うと、中学生や高校生前半の時期に、軽い病気で苦しんでいる人の姿を見て、そんなことで悩みやがってと、自分自身の不幸さと他人の不幸を比べて、こちらの主観で相手の苦しみを評価していました。そのずっと苦しんでいた時にふと考えたのは、それぞれの苦しみというものを他人が客観的に評価してはいけないということです。例えば、おでこにホクロがある人がいて、その方がそのホクロに強いコンプレックスを持っていて、本人はすごく悩まれているかもしれない。それを周りの人がこんなことで悩んでという形で評価するのは良くないなと思ったのが、高校生の頃でした。そう思うようになり、いま実際に皮膚科医になって、比較的軽症な患者さんに対しても、そのことは患者さんにとっては辛い問題なのかもしれないと考え、その患者さんの悩みに共感することができているのかなと思います。中学や高校の頃の自分が辛かった時期には、なかなか考えられなかったことかもしれません。自分自身が病気だからこそ、患者さんの気持ちを少し理解しやすいのかなと、いまは思っています。

大切なことですよね。

遺伝病ならではの辛い問題が生じることがあります。例えば、遺伝病の赤ちゃんを産んだご両親は、お子さんに対して申し訳ないという気持ちになり、自分自身に責任を感じてしまうことがあります。このような場合、私は自分自身が実はこういう病気なんですと、自分の病気のことを伝えるようにしています。その上で、自分自身が成長するにあたって親を恨んだことなど一度もないこと、親が私のことを心配していつもそばにいてくれるだけで私自身は十分感謝していることなどを伝えさせていただいたりしています。こういうことは、自分自身が患者であるからこそできることなのかもしれません。

患者さんの立場を一方的に頭で理解するのではなくて、自分自身が経験されている中で感じているからこそ、伝えられることですね。

僅かかもしれませんが、少しは近い立場で話ができているような気はしますね。

そうですね。寄り添っていただいている感じがすると思いますね。

それもあって、私は皮膚科医になって良かったと思っています。

医師として働いている上で苦労されていることについて、差し支えない範囲でお聞かせください。

医師として働く上で苦労していることは、基本的にはありません。ただ、疲れが溜まると、どうしても身体を掻いてしまい、傷がたくさん増えてしまうので、疲労やストレスがあまり溜まらないよう、自分自身で仕事をコントロールしながらやっている気がします。また、爪は指先の細かな感覚にとても重要なのですが、私は爪が分厚くなっているため、細かな物が掴みづらかったりします。そのため、手術などの細かな作業は少し苦手な気がします。もっとも、そもそも手先が不器用な方はたくさんいるので、爪の問題が特別自分にとって不利になっているとは思っていません。

そういう症状があるために、何か工夫されていることはありますか。

医師はたくさんの仕事をこなす必要がありますが、過度なストレスを溜めず、普段から要領よく仕事を進めていくように努めています。

匂いとか刺激とかが診療の中で強くならないよう、特にしていることはありますか。

そういうことは特にありません。

それでは最後に、何かお話しいただきたいことがあれば、自由にどうぞ。

自分自身が患者でもある医師は、患者会に積極的に参加しても良いかもしれません。私は患者会で講演をするなど、可能な範囲で患者会に関わらせていただいています。表皮水疱症は日本国内に千人ぐらいしか患者がいない希少な病気のため、診断すらつかずに途方に暮れてしまう患者さんが国内外にたくさんおられます。患者会に関わることで、患者さんたちが実際に何に困っているのか知ることができます。自分自身の症状や生活環境では何ともなかったことが、別の方だとこういう点で問題があるということ、表皮水疱症という病気を詳しく知る医師が周りにいないため、十分な治療を受けることができていない方がいることなどを知りました。
この病気は皮膚だけの病気ではなく、食道が癒着して狭窄したり、腎不全になり透析が必要になる方もいます。表皮水疱症は希少な疾患であるため、表皮水疱症患者の食道狭窄や腎不全を専門的に診察できる医師は、ほとんどいないと思います。私が考えているのは、例えば東京でも大阪でも名古屋でも構わないのですが、日本各地から患者が集まりやすい場所に表皮水疱症のセンターを作るということです。九州や四国からでも年に1回はセンターに来ていただいて、全身の皮膚の状態を確認し、またその際に表皮水疱症で生じうる合併症もチェックして、適切に処置を施します。症例を集約することにより、医師自身の経験も増えていけば、より良い治療が行えるようになると考えています。そして、患者さんは地元に戻って、普段の治療を地元で受けて頂くというシステムです。こういうことをやりたいと考えるようになったのも、患者会に参加して、現状で何が足りないかが分かったからです。医者として患者として、日々熱意を持ってやりがいがある仕事を進めています。

その夢がいつか実現すると良いですね。本日は、どうも有難うございました。

Y.F医師のインタビュー

最初に、ご自身の障害についてお聞かせください。

先天性の両下肢の麻痺で、長下肢装具という太ももから下全体の装具を両足ともに着けていて、それがあれば歩けますが、外してしまうと全く立てない状態です。足には先天性の変形もあります。

そうした状態だと、子供の頃から色々と苦労されてきたと思いますが、学校にはどのように通われていたのですか。

保育園の頃に少しだけリハビリをしていて、バランスを取るのが上手かったようで、装具を着ければ杖をつかずに歩けるようになっていました。小学校からすべて普通学級で、体育や遠足もできる範囲で参加していましたし、他はほぼみんなと一緒に授業を受けていました。学校側にも色々と配慮いただいて、手すりをつけたり、階段の昇り降りが少ないように、教室も下の階にしてもらったりということがありました。

この病院に通うのに、通勤はどうされているのですか。

今は病院の隣のマンションに引っ越したので、通勤は特に問題はありません。以前別のところに住んでいた時は、病院まで手動式の車で通勤していました。

電車通勤だと、どうしても階段の上り降りなどがあって、通勤するだけで疲れてしまいますよね。

そうですね。社会人になってからは、車を使うことが増えました。

ところで、医師を志されたのはいつ頃ですか。

具体的に医師になりたいと思ったのは、中学生頃だったと思います。

何かきっかけがあったのですか。

もともと主治医の小児整形の先生が女医さんだったこともあり、格好いいなという漠然とした憧れがありました。中学生の時に阪神・淡路大震災があり、自分の将来のことを考えました。中学2年生の時に、少年の主張大会という作文コンクールがあって、担任の先生から自分のことを書いてみないかと言われ、自分の障害のこととか、周りの友人に凄く助けられて今まで生活を送れてきたことを振り返ってみて、将来何になりたいかということも書いたんです。今まで助けてもらった分、今度は人の役に立つような仕事がしたいということで、医師になりたいと書いたんです。多分そのことが、医師を目指そうというきっかけになったと思います。

主治医の素敵な先生が小児の整形外科だったので、やはり整形外科がイメージとしてはあったのでしょうか。

ただ、自分は外科系はちょっと難しいのじゃないかという気持ちはあって、当時は子供の小児科とか震災があって心のケアが大事ということもあったので精神科とか、そういった方面にも興味はありました。

医師を志して、次に大学を受験するという具体的な行動に移るとき、心配なことはありませんでしたか。

実際に障害を持って働いている医師がいるのかも分からなかったので、そこは不安でした。今のようにホームページ等で情報が得られていれば、そういう人もいるんだということで、挑戦しようという勇気を持てたと思いますが。医師は実習もハードだと聞いていましたし、勤めてからも体力的な面で大丈夫かなあ、という不安はありました。

障害がありながら働いている医師がいることを知る機会は、大学に入るまではなかったということですか。

そうですね。

大学に入ってからは、実習とかも大変だったでしょうね。大学には過去にそういう例はなかったのですか。

どうでしょうか。あまり聞いたことはなかったです。

今は大学に障害学生支援室のようなものがありますが、学生の頃はまだなかったのでしょうか。

なかったと思います。ただ入試のときには、私の場合は特に配慮してもらうこともなかったので、相談することもありませんでした。

大学に入ってからは、実習系のものでは苦労されましたか。

そうですね。その都度、担当の先生に相談しながらということでした。

大学としても、道を拓きながらだったのでしょうね。

そうだったかもしれません。

大学は6年で、そのあと初期研修が2年ですが、どちらの病院でしたか。

大学のある大阪府内の病院でした。6年生の実習の時にその病院に行く機会があり、病院の様子も見ていたので、そこで初期研修を受けることになりました。

リハビリテーション科に進もうと思ったのは、いつですか。

大学に入ってからです。それまではリハビリテーション科の医師がいること自体も知りませんでした。関西にはリハビリテーション科の講座もあまりないのですが、大学に入ってからリハビリテーション科の講義があり、装具の勉強もありました。自分が着けているのに自分の装具のこともあまり知らないのだなあとか、障害者医療に携わる医師という道もあるのかということで、興味を持ちました。初期研修に行った病院にはリハビリテーション科があって、そこで勉強してから将来を決めたいと思って、志望しました。

初期研修の後は、どうされたのですか。

初期研修2年目の時に、リハビリテーション科で実習をさせていただきました。研修医でリハビリテーション科を回る人は少なくて、私が初めてだったそうです。そこで進路をリハビリテーション科に決め、先生の紹介で出身大学とは別の大学に新しくリハビリテーション科の講座ができたので、そちらで後期研修を受けることになりました。

こちらの病院に移られたのは、いつ頃ですか。

後期研修の1年目は大学の付属病院で、その後2年間は大阪府立の急性期医療センターのリハビリテーション科に行きました。その当時、こちらの病院は古い建物でエレベーターも1台しかなかったのですが、建て替え後の2012年からこちらに移りました。

建て替え後ですから、環境的には大変恵まれていましたね。

はい、本当にハード面では全く困ることがありません。

今、医師として働いている上で、ご自身で何か工夫されている点はありますか。移動以外には、それほど苦労されていることはないでしょうか。

そうですね。私はリハビリテーション科の医師ではありますが、実際に体を触ってリハビリを行うのは、理学療法士だったり、作業療法士だったり、言語聴覚士なので、チームをまとめるような役割になるんですね。そのほかにも、嚥下内視鏡といって喉を見る内視鏡の検査とか、注射などの手技はあるので、姿勢を取るのに難しいときには、ちょっとベッドの高さを変えてもらったりとか、スタッフの皆さんに助けてもらいながらというところです。

そうした際には椅子に座ってするのですか。

椅子に座ってする時もありますし、立ってする時もありますが、一応手技もできています。

立っているのが大変な時には座ることもあるし、過重な負担がかからなければ立って作業することもできるということですね。

長時間でなければ可能です。初期研修の時にも、外科系の研修の際には手術に入ることもありました。長時間立っているのはしんどいので、当時は若くて体力もあったので「3時間は立っていることができます」と指導の先生にはお伝えしました。3時間限定で手術に入らせていただき、3時間経ったらちょっと休憩させてもらうことで、研修させてもらいました。

リハビリテーション科でもいろいろな分野があるようですが、今の病院ではどのような分野をされているのですか。

この病院には、回復期リハビリテーション病棟と障害者病棟があります。基本的には、脳卒中の患者さんとか、脊髄損傷の患者さん、大腿骨骨折されて手術後の患者さんとか、そういった患者さんを中心に、急性期治療が終わった後の回復期のリハビリを入院で行っています。

そうした患者さんに対してチームで行う医療の治療計画を示したり、検査や手技をやられているのですね。

合併症の管理などもやっています。

リハビリテーション科というのは、比較的移動に困難があってもやりやすい診療科なのでしょうか。

そうだと思います。

今の身体の動作のことを考えた時に、比較的やりやすい診療科には、他にどのような診療科がありますか。例えば、内科はどうでしょうか。

内科も、循環器だとカテーテル検査とか手術とかがありますが、内科も分野によってできることはたくさんあると思います。

その他、先ほど言われた精神科でしょうか。逆に、外科系はちょっと難しいですかね。

やはり、長時間の手術となると難しいと思います。

今は、医師として勤務する上で困っていることは、それほどないでしょうか。

今はそれほど感じずに、仕事ができています。

周りの方に何か配慮いただいていることはありますか。

リハビリテーション科は、あまり患者さんの急変はないのですが、何か病棟で急変が起きたときに、階段を降りて駆けつけるのは難しいので、そうした場合は他の先生にお願いしなければいけないとは思います。回診もありますが、私はエレベーターを使って移動させてもらっていますし、それ以外はそれほど困難を感じずに働けています。

これまでのお話は病院の中でのことですが、医師として活動する上では学会で発表したりすることもあるかと思います。少し広がりを持って考えたときに、もう少しこうなれば良いと思われていることはありますか。

学会発表で登壇するのに階段を昇らなければならない時は、ちょっと介助してもらわなければならないことがあります。横に壁があったり、手すりがあれば、ゆっくりでも自分で昇れるのですが、何もない所に段だけあることが、これまでも何回かありました。同じ病院から誰か一緒に行っていれば手伝ってもらえますが、誰もいない場合は学会のスタッフに介助をその場でお願いしなければなりません。会場の状況が事前には分からないので、その時にその場にいる方に介助をお願いすることになってしまいます。その辺がバリアフリーになったら嬉しいなというのはありますね。

あらかじめこちらから伝えて、何かしておいてもらうのは、ハードルが高いのでしょうか。

そうですね。

向こうから聞いてきてくれれば、答えやすいのでしょうね。

事前にお伝えしたらよかったのでしょうが、そこまでなかなか思いが至らなかったところがあります。

今でもそういう状況は変わっていませんよね。

そうですね。事前に聞いていただければ、こういうことですと具体的にお伝えできるかと思います。

他に、病院の中でも外でも、こうなったら良いと思うことはありますか。

私自身、医師になってからは、頸損でも働いている医師がいるなど、障害があっても働いている方が結構いることが分かったのですが、そういった方の話をもっと聞いてみたいですね。

医師で障害のある方に出会ったり、話をされるような機会はありますか。他病院のリハビリテーション科には、車椅子を使われている医師もおられるようですが、学会などでお見かけすることはありますか。

学会でお見かけすることはありますが、人もたくさんいるので、会場で話しかけてお話しするのは難しいです。もっと色々な方のお話を読むなり、直接お話しできれば良いとは思います。

脳卒中などの中途障害の方では、医師として働き続ける上での情報を知りたいようです。障害のある当事者の情報なら医師でない人からでも聞けますし、障害の種別ごとの当事者のネットワークもありますが、そういうものとは別に、医療職という同じ立場の方の話が聞きたいというニーズもあるようです。

私自身は、入学前に知ることができたら凄く良かったなと思います。医師が実際にどういう仕事をしているのか、私の身体でやっていけるのかというところが、全くわからなかったので。精神科なら立ったままということはなさそうだし、できそうかなとか、そういうイメージでしか分からなかったので。実際に車椅子でも診療されている医師がおられたら、どういう工夫をされているのかとか、そういったことを知ることができたら、大丈夫だなという安心材料にはなったと思います。

相当不安があったということですね。その不安のために、医師になるのを諦めてる人もいるかもしれない、ということですか。

そうだと思います。

医師に限らず、いろいろな職業で活躍されている方がいることが分かれば、将来の職業の選択肢として意識できるでしょうね。こうやって働いているということを、どういう世代に伝えたいですか。

高校生ぐらいですかね。進路を考える時期だと思うので。

とても大事なことですね。

医療業界も男性中心の社会ということで、当時はまだ女医さんも少なかったので、障害もあって更に女性でやっていけるのかという不安はありました。ただ、医師になってから分かったことですが、医師免許があれば働くところは、病院以外にも企業とか行政とかもあって、凄く幅広いのですね。リハビリ科も、私のように最初からリハビリ科を選ぶ人はまだ少なくて、内科や整形外科や脳外科から転科して来られる方も結構おられます。医師になってからも道を変えるのは十分できるということも、医師になってから分かりました。

医師という仕事は、他の仕事に比べてかなり勉強しなければならないので、大変だとは思いますが。

リハビリテーション科も扱う疾患がかなり幅広いので、勉強は大変だとは思います。

実際に働かれてみて、リハビリテーション科はどうでしたか。

そうですね、やりがいはとてもありますね。手術などに比べて、自分がこうして良くなったということはなかなかないところですが、総合して治療することで患者さんが社会に復帰して生活していけるようになる、良くなられて退院されて、仕事にも復帰されたという話を聞くと、凄くやりがいを感じますね。

例えばタイムマシンに乗って高校生の時の自分に会って、医師になれるのかどうか悩んでいるのを見たとしら、その時の自分にどういう言葉をかけてあげたいですか。

「諦めなくても、自分の進みたい道に挑戦したらいいよ、大丈夫だよ」ということですかね。私の場合は、高校生の時は成績自体が足りていなくて、医学部は難しいよと先生にも言われていましたが、やっぱり挑戦しないと後悔するなと思って。一年浪人はしましたが、予備校に通って、もう一度挑戦しようと思って勉強しました。それ以前に、私には無理じゃないかと諦めてしまう人がいるとすれば、「諦めないで挑戦してみたら。工夫次第でできることもあるから」と。もし、医師になりたいと思っている方がいれば、その道に向かって進んでいただきたいなと思います。

そういう意味で、若い人から相談に乗ってくれますかと言われたら、どうされますか。

もうそれは是非。一人一人障害も違うので、私だけの経験では参考になるものもならないものもあるとは思いますが、お話は是非。障害を持っていても、医療現場で働く方がどんどん増えてくれれば、嬉しいなと思います。

医療の道に進む人が増えてきて、みんなで情報交換して、さらに若い人たちに「諦めなくていいんだよ、みんなが色々工夫してきたこともあるよ」というメッセージを伝えていければいいですね。

医療って1人ですることではなく、本当にチームでいろんなスタッフが関わってやっているので、自分のできないところはカバーしてもらったり、「こういうところはできます、こういうところはちょっと難しいです」ということを伝えれば、チームでやっていくことが十分できると思います。

そうですね。1人で全てをやるわけではないですよね。ブラックジャックのようなスーパーマンが1人で全部やるのではなく、チームでやっている、そういうことも意外と知られていないかもしれませんね。
最後に、ご自身の将来の夢を語っていただければと思います。

リハビリテーション科の専門医は取得したのですが、リハビリ科もかなり幅広いので、その中でどういう分野を専門にしていくかを考えています。うちの病院は脊髄損傷の患者さんが多いので、脊髄損傷の勉強を中心にしていますが、さらに専門性を持って診療をしていきたいことと、できるだけ長く働いていけたらと思っています。ただ、今は育休から復帰したてで、時間も制限して勤務させていただいているところです。

お子さんは何人ですか。

2人です。4歳の娘と1歳の息子がいます。

まだ小さいので大変ですね。

そうです、大変です(笑)。

是非、将来の夢に向けて頑張っていただければと思います。そして、その姿を色々な機会に若い人達にも知っていただけると良いと思います。
本日は、有難うございました。

(2018年8月収録)

radiologist医師のインタビュー

はじめに、現在の病院で放射線診断科で勤務されることになった経緯からお話しいただけますか。

外科レジデントとして勤務していた時に、自転車で通勤途中、病院近くの青信号の横断歩道で10トンの大型トラックに巻き込まれ轢かれる大事故に遭いました。救急搬送され、1か月間ほど集中治療室で治療を受け、幸い一命を取り留めることができましたが、脊髄損傷完全麻痺の障害が残りました。その後、医師として復帰するためにリハビリをしている時に、私が脊損で車いすの生活になることを知った放射線診断科の先生から画像診断医として働かないかと誘っていただきました。外科医の頃から画像診断にも強い関心があったので、画像診断医としてこの病院にお世話になることになりました。事故から10か月ほどで仕事に復帰しました。

脊損により外科医として働くのが難しくなったわけですが、放射線科以外の診療科、例えば、内科という選択もあったのでしょうか。

選択肢はたくさんあったと思います。候補の中には、リハビリ医もありました。医師で車いすの方が何人かリハビリ科にいて、実際に見学にも伺いましたが、それまで外科の第一線でやってきたので、最終的にはそれに関わる仕事がしたいと思いました。放射線科は、患者さんを直接診たり治療したりすることもないので、ある程度自分のペースでできますし、様々な領域の外科医をサポートする点では、外科医の経験も生かせる仕事なので、今考えてもベストな選択だったと思います。

がんセンターで放射線科と言えば、国際的にも最先端の領域でしょうね。

CTやMRIなどの機器も最先端のものが入っていますし、高いレベルで研究もさせていただいています。 周りの人のサポートがあればこそですが、あまり不自由を感じずに働けています。

病院はバリアフリーな環境でもありますね。

ハード的に見れば、問題はないと思います。

ハードとは別にソフトというか、サポートがないと困ることはありますか。

例えば、学会で発表するときなどには、「車いすを使っているので演台にスロープをつけてください」といったお願いを事前にする必要があります。最近の海外の学会では、演題発表の申請時に障害などで移動に支障があるかどうかチェックを入れる項目があって、これにチェックを入れておくと、演題発表が受諾された後に、「発表時の移動はどのようにサポートが必要でしょうか」と自動的に連絡が来ます。国内の学会ではそこまでのサポート体制は整っていません。

2015年4月からアメリカに研究留学されましたが、その時はどうされたのですか。

2年間休職させてもらって行きました。

アメリカの病院には、車いすを使っているスタッフはいましたか。

私のいたボストンの大学病院では、車いすを使っている医師はいませんでしたが、病院に出入りしている業者には車いすを使っている人を良く見ました。アメリカでは、車椅子を使っていようがいまいが、働くという点では関係ないという感じです。障害を個性の1つとしてしか捉えていないので、私自身も特に特別な配慮をしてもらったという意識はありませんでした。日本に帰国してからの方が、特別扱いしてもらっているような気がします。

国内では目立つ存在なのでしょうか。

目立つ存在と言うよりも、「あー車椅子使っていたんだ」と再認識する場面が多いかもしれません。アメリカでは別に気にならないことが、日本だと多少気を使わなければならないかもしれません。

それは日常生活の中ですか。

はい。日本ではエレベーターが設置されていない駅も多いですし、行動する前に色々と調べる必要があります。アメリカではどこに行くにもアポなしで行動でき、たとえば、飛行機なども車椅子と予め伝えていなくてもすぐ対応してくれます。先週もロサンゼルスの学会で発表があり、一人で参加してきました。始めのうちは海外出張など妻や同僚と一緒に行ったりしていましたが、最近は慣れてきたので一人で出かけています。

病院で働いている中で、苦労されていることはありますか。

1つ問題となるのは、褥瘡です。画像診断医はデスクワークなので、長時間座っていることが多いのですが、臀部の感覚が全くないので、忙しいときに褥瘡を2回ほど作ってしまい、この病院で手術していただきました。

マットで防ぐことはできないのでしょうか。

今も特別なクッションは使っています。仕事であまり無理をしないのが良いのでしょうが、そうも言ってはいられない時もありますので、病院にいるWOCナース(皮膚・排泄ケア領域の認定看護師)や形成外科の先生に時々相談したりしています。

放射線診断の画像を読み取る際に、車椅子で足が入らないとか手が届かないとかいう設備機器の問題はありませんか。

特にありません。読影室の机の椅子を外すくらいでしょうか。必要があればCT室やMRI室にも行きますが、造影剤のアレルギーで患者さんに対応しなければならないときには、他の人に行ってもらうこともあります。

放射線科には技師がいますしね。医師がいて技師がいてチームで働いている点では、内科以上に環境としては良さそうですね。患者さんが放射線診断を受けるときに、立ち会うことはあるのですか。

立ち会うことはありません。私の仕事は、もっぱらCTやMRIといった放射線画像の読影になります。画像を参照するデスクに画像を送ってもらい読影するという仕事なので、極端なことを言えば読影室にいなくてもできる仕事です。アメリカに留学中も、日本から画像を送ってもらい、診断レポートを付けて返すという仕事もありました。

それだと在宅でもできるし、病院に入院している時にもできますね。

現に私も褥瘡で入院している時に、病室で普通に症例カンファレンスの読影などをしていました。

普通のノートパソコンでもできるのですか。

できます。インターネット回線があればどこでもできます。現在はクラウドのシステムなどを利用して、データを送ったり直接画像を参照したりできます。

そう考えると、ある程度の知識経験があれば、頸損の方がベッドの上で仕事をすることもできますね。

できると思います。頚損の方だとキーボードでの入力に制限があるかと思いますが、最近では音声での文字入力が可能で、私も9割以上は音声で入力していますので問題ないと思います。

なぜ音声で入力しているのですか。

身体が楽だからです。両手でキーボードを打つと、ずっと座っていなければなりませんが、音声入力だと手で支えて少し体を浮かせることができるので、お尻を褥瘡から守ることができます。

もちろん読影力は一朝一夕に身に付けられるものではなく、向き不向きもあるのでしょうが、1つの可能性として画像診断医という仕事には、内科で患者さん相手に時間に追われて診察をするのに比べても、時間的にも余裕がありそうですね。

あると思います。他の業務で忙しい時は、緊急性のない症例は残しておけば良いし、後でまとめて見ることもできます。1週間海外の学会に参加した時などは、帰ってからまとめて一気に見たりすることもあります。

その上、ずっと読影室にいる必要もない。

そうですね。がんセンターでは患者さんの状態について主治医とコミュニケーションをとる必要があるので難しいですが、将来的な画像診断医の仕事としては、それこそ、沖縄などで海を見ながら読影することもできるかもしれません。

読影する医師がいなくて困っている病院もたくさんあるので、そういう病院から仕事を受けて働くこともできますね。病理診断もインターネットで画像を送れるのですから、病理診断も含めて遠隔で働く可能性も増えていきそうですね。

そうですね。画像診断や病理診断は障害に関係なく働くことができる良い分野だと思います。優秀な臨床医の先生が車椅子などで仕事が困難になった場合でも、専門を変更することは難しいことではないと思います。

レジデントの時に事故に遭われて、外科医の専門を目指す道から画像診断医に転身されましたが、ある程度専門医でやられてきた医師の場合は、転身のハードルが高いということはないでしょうか。

一般的に考えれば、医師免許の資格がある以上、ハードルは高くないと思います。私の場合は、10か月で医療現場に復帰して、そこからすぐに放射線診断を始め、次第に画像が読めるようになってくると、外科医からこの症例はどこを切除すれば良いのかと手術前に相談されるようになりました。そうなるとチームの一員になっている感覚も持てて、ますます面白くなってきたので、転身したことであまり苦労した意識はありません。

画像診断医になるための勉強というのは、どのようなものですか。

優秀な指導医のもと、症例の経験をたくさん積むことだと思います。専門医を取得するのに5年の経験が必要ですが、私の場合は、頭頸部を専門にした画像診断医として働きつつ、大学院にも通いながら画像診断の勉強を続けました。2010年と2011年に北米放射線学会で発表した時に金賞をいただいてからは、外から仕事を依頼いただくことも多くなり、軌道に乗った感じです。

先生が優秀だったからでしょうね。

それは分かりませんが、この病院は臨床経験を積むことや研究の面で環境が非常に優れていて、症例も豊富ですから。あと、優秀な指導医にも恵まれました。

大学病院のように医師が何人もいる病院は良いですが、そうでないところだと独り立ちするのにも時間がかかるでしょうね。

そうですね。だからトレーニングの期間はやはり必要で、そういう意味ではこういう大きな病院の方が展開しやすいかもしれません。

この病院でトレーニングを受けたいと言う人がいたら、受けられるのでしょうか。

もちろん受けられます。特にここは私の事例もあるし、仮に障害があっても受けやすいと思います。どこかにそういう人がいればぜひ紹介してください。

先生ご自身の事例をどこかで紹介されたことはありますか。

一度、がん治療学会のシンポジウムで、事故からの経緯とどのように働いているかについて講演させていただいたことがありますが、そのくらいですね。

在職中に障害を有しても、離職せずに働き続けられる方もいますが、医療職の場合には働き続けることが難しくなることも多い中で、参考となる事例が求められていると思います。

アメリカでは履歴書にも車いすを使っていることを書く欄もなかったので、それが採用の壁になっているとは思いません。むしろ、そういう人の方が採用しやすいという、マイノリティー重視の文化であるように思います。日本もそういうところがあると良いと思います。

アメリカは差別禁止の発想ですが、日本には障害者雇用率制度があるので、雇いやすい面もあるかと思います。それでも職域開発は大切で、「そうか、こうすれば働けるのか」という情報が大切です。

私の事例が何かのお役に立つのであれば嬉しく思います。

最後に、もし身近に医師で同じような立場になられた方がおられたら、どんなことをアドバイスしたいですか。

あまり障害のことは考えずに、自分がやりたいことを選択するのが一番だと思います。仕事を長く続ける上では、自分のモチベーションを保つことが重要です。私も働きはじめた頃は、脊損後疼痛で苦しんでいて強い薬を服用していたのですが、仕事を始めて仕事に集中するようになると、痛みが緩和され薬も減って、やがて薬がいらなくなり、痛みも感じなくなりました。最初はいろいろ心配しましたが、興味のあることを見つければ気にならなくなるし、体がそれに適応していくので、あまり心配せずに好きなことをやったほうが良いと思います。まずは始めてみて、上手くいけばそれでいいし、上手くいかなければその時に考えればいい、そのくらいの思い切りが必要な気がいたします。

今は、仕事のほうも充実しておられるのですね。

そうですね。おかげさまでいろいろやらせてもらっています。なんでも本人次第のような気がします。

本日は有難うございました。

(2017年5月収録)

S.S医師のインタビュー

障害の内容について教えてください。

中学3年の15歳の時に、脊髄の炎症になって足が動かなくなりました。膀胱と直腸の障害も少しあります。

突然だったのですか。

突然でした。当時は検査をしても原因はわかりませんでしたが、後遺症として障害が残り、伝え歩きなら何とかできますが、長距離の歩行はできないので、車椅子を使って生活しています。

家の中では伝え歩きはできるのでしょうか。

はい。

通勤はどうされていますか。

大学1年の時に車の免許を取ったので、車で通勤しています。

中学3年というと、高校進学も控えて大変な時期ですね。

そうですね。いろいろ思い悩んだ時期がありました。

高校は普通校に進学をされたのですか。

中高一環の学校だったので、そのまま高校に上ることができました。理解のある学校で、母の車での送り迎えも認めてくれました。エレベーターもありましたが、教室の場所も行きやすい場所にしてくれたり、体育のように難しい内容のものは他のことで代えるなどの配慮をしてもらい、なんとか卒業できました。

難しかったのは、体育くらいですか。

頻尿があるため、授業を長時間受け続けたり、集団行動を途中で抜けられないと辛いのですが、先生から「いつでも抜けていいよ」と言われていたので、精神的に追い込まれることはありませんでした。

周りの同級生の協力はありましたか。

もともと友達だったので、入院中にもお見舞いに来てもらい、私の変化も見ていたので、大変暖かく接してもらえました。

高校生活はどうでしたか。

障害の影響で足がむずむずして睡眠障害が出てしまい、普通の時間の睡眠では足りず、日中は凄く眠かったので、毎日学校に通って宿題をするので精一杯でした。

そういう中で、医療の道に進むことはいつ頃考えたのですか。

最初は獣医や、生物が好きだったので理学系の研究も面白そうかなとか、学校の先生もいいかなとか、色々と考えていました。足が悪くなってからは、動物を相手にする仕事は難しいと思い、理学部を目指したのですが、浪人中にいろいろ考えて、社会の中での自分の存在みたいなことを模索した時期がありました。社会に貢献できる人間になりたいと思い、自分がお世話になった医療の仕事への憧れが強くなってきました。そんな時に大学のオープンキャンパスがあり、医学部を見学させてもらったところ、大学の側が受け入れを検討してくださったので、医学部の受験をしようと思いました。

障害のある学生の受け入れに積極的な大学だったのですか。

前例は無かったのかもしれませんが、「君が大学に入ってくれたら、今後入ってくる障害を持った学生や年をとって足が悪くなった人でも利用できる施設に変えていけるし、あなたが大学に来ることに意味はある」と言ってくれました。

いい大学ですね。その大学を受験されたのですね。

はい。

そうは言っても、医学部はたくさん勉強しないと入れないので、二の足を踏んだりしませんでしたか。

そうですね。勉強しないといけないと思い、一生懸命勉強しました。

医学部には実習もありますが、受験前に心配はなかったのですか。

事前にはイメージが湧きづらかったですが、サポート体制がしっかりしている大学で、入学前に施設を回ったりして、解剖の時はどうしたらいいかとか、実習の時はどうやれば回れるかとか、一緒に考えてくれたので、特に不安も感じませんでした。

それは大学に入学する前ですか。

オープンキャンパスの時に「車椅子なのですが、大学に行きたいけれども大丈夫ですか?」と聞いた時点から、いろいろと考えてくださって、病院の中なども見学させてもらい、研修していく上で何か問題があるか、上の先生に学生担当の人が聞いてくれるなど、いろいろと考えてくださいました。

すごいですね。そういう大学もあるのですね。それだと安心して受験できますね。オープンキャンパスは、いつ行かれたのですか。

浪人1年目の夏です。現役の時は成績が届きませんでしたが、浪人して成績も上がってきたので、行ってみました。

予備校には通われましたか。

浪人1年目の時は、ほぼ宅浪でしたが、医学部に入るのには学力を上げる必要があったので、2年目の時は電車で予備校に通いました。通うだけでもしんどかったです。

そうして頑張って合格されたわけですが、大学に入ってみたら、予め聞いていた話と違ったりしませんでしたか。

困ったことがあっても言えばすぐ対応してくれて、思っていた以上でした。

具体的にはどんなことがありましたか。

毎日通る扉が重いという話をしたら、いつの間にか自動扉に変わっていたりとか、通路に段差が多くて通れないと言うと、スロープに舗装されていたりとか、いろいろしていただきました。

そういうことを伝える先は、どこになるのですか。

学生支援室です。私のことを心配してくれている先生がいて、その方を中心に動いていただきました。

人にも恵まれていたのですね。医学部の実習では難しいことはありませんでしたか。

体力的に難しかったのは、解剖くらいでした。普通は4人で班を作るところを、私の班は5人にしてもらい、私はできる範囲のことをして、できない作業は見学させてもらいました。講義は、特に問題なく受けられるよう配置してもらいました。ポリクリ(臨床実習)で病棟を回る時も、班のメンバーが車椅子を押しでくれるなどサポートしてくれました。

同級生の協力もあったのですね。専門の診療科は、学生時代に決めたのですか。

学生時代は、体の面を気にして、画像診断や精神科が良いかとも思っていました。初期研修の病院が理解のある病院で、できることは自分でできるようにして、配慮が必要なら手伝ってもらえるという病院でした。その病院でいろいろな患者さんを診させてもらう中で、興味があると思えたのが脳神経内科でした。脳神経内科の対象は、脳梗塞、認知症、パーキンソン病のほか、私の病気も脳神経内科の疾患ですが、患者さんの体が動きにくいことに対して、自分にできることがある、役立てていると思えることがありました。例えば、パーキンソン病の患者さんにお薬を調整することで、動けなかった人が普通に動けるようになるのを見て、自分は動けないながらも、患者さんの辛さを共感して、どうしたらよいかを考える過程が面白いと思い、脳神経内科に魅力を感じました。

自分の障害と通じる部分というか、理解できる部分があるということですね。

友達とか同級生の中にも、自分自身の病気を経て医学を志す人が何人もいますが、やはり自分が患った病気と関係する方向に進む人が多いように思います。

理解できる部分があるということは、患者さんも感じるでしょうね。診察も車椅子でするのですか。

はい。どういう感じで見られているかは分かりませんが、障害があっても楽しく過ごしたり、仕事をしているのを見てもらうことで、病気になっても楽しく生きている人がいるのだと、勇気づけられる人もいると思うので、そんなことに役立てれば良いかなと思っています。同じような病気の人が多いので、心を開いてもらいやすいメリットはあるかもしれないですね。障害があることで邪険にされることがないのは、とても有難いです。

素敵な笑顔なので、皆さんも明るい気持ちになるでしょうね。

できるだけなごやかに診療するようにしています。

どのような時にやりがいを感じますか。

患者さんの状態が良くなると、自分も嬉しいと言う気持ちになります。それがやりがいですね。患者さんの状態が悪くなると、自分も哀しくなります。

医師として働かれていて、注意されていることはありますか。

患者さんの急変時の対応は、どこまで自分ができるかを考えた上で、自分ができないことはちゃんと人に頼んでおくことが大切ですね。人の命が関わっているので。

急いで駆けつけなければいけない時などですね。

それもありますし、駆けつけた後の対応もスピードを求められる場面があります。どうしても速さはないので、苦手にしている感じはあります。

脳神経内科でも急変時の措置が必要なことが結構ありますか。

脳梗塞の患者さんを多く診る病院だと、すぐに対応しなければならないことがあると思います。同じ診療科でも、急変の可能性の少ない患者さんの受持ちであれば呼ばれることは少ないですし、、急変する可能性が高い患者さんばかりだと急変時の対応をする機会が多くなり難しいかと思います。

三次救急の病院だと難しいでしょうね。

初期研修の時には、大学病院の救急で三次救急の勉強もしましたが、何人かでスピード感ある対応を求められるので、勉強として配慮された上でなら参加することができますが、診療で行うとなると速さに着いていけない感じがします。

その意味では、医療機関で働く場を選択するには、比較的急変や救急対応が少ないところですね。

そうですね。自分1人でやるのは危ないかなと思います。普段は一次・二次救急をやっていますが、そこまで急がない患者さんであれば対応できます。

そのほか、医師として働く上で苦労されていることはありますか。

私の場合は頻尿がネックなので、患者さんへの説明に時間がかかりそうな時や、急変した患者さんに付いていなければならない時、手術の時などには、どういうタイミングでトイレに行くかが課題です。ギリギリにならないと尿意を感じないため、自分でちゃんと管理しておく必要があるので、今からこれをするのでその前にトイレに行っておこうとか、工夫しています。

事前に予防的に準備しておくことですね。予防的なことができる時間的余裕も必要でしょうね。

そうですね、余裕がある方が望ましいです。病院とか診療科も、自分に合ったところを選ばないといけないと思います。

医師として働いてきて、学生時代より情報も集まってきたと思いますが、同じような障害があって医師を目指す方に対して、どの診療科をお勧めしますか。

診療科で選ぶのは難しいかもしれないですね。病院にもよります。外科系は外すとして、内科系ならできないことを避ければ、多分できるのではないでしょうか。専門資格を取るためには、手術に入らなければならない診療科もあります。手術が必要な診療科の先生からは「無理のない形で自分のできる範囲でオペに入ってもらえば、後は日常診療できるように勉強してもらえばいい」と言っていただいたので、病院と診療科と周りのサポート次第で、何でもあるのかなと思います。

一緒に働く人たちのサポートも大事ですね。

そうですね。心理的に支えてもらえる面もあるので、理解してもらえるのが一番大きいと思います。

あまり忙しすぎると、理解してもらうのも難しいですね。

まあ余裕があるところが良いかなと思います。

障害があるのに医師を目指すことに対して、無理だから諦めたらとか言われたことはなかったですか。

言われたことはないですね。どうしようかと思っている段階でオープンキャンパスに行き、大丈夫だと言われた経験があったので、そこまで思い悩まずに目指せて来れました。いろいろな病院があり診療科もあって、医師も不足してると言われていて、業務も多種多様な中では、自分ができることは何かしらあるはずです。どんな人であっても医師を目指すことに問題はない、そういう職種なのかなと思います。

そういった情報が足りないのでしょうね。

オープンキャンパスに行って、良い案内をしてくれる方と出会えたら良いですね。

オープンキャンパスに行くのもハードルが高くて、何しに来たと思われるのではないかと考えてしまう人もいるでしょうね。自分が行っても良いのだろうかと。

行ってみないとわからないですよ。オープンキャンパスは、広く学生が見学に来る機会なので、どんな人にも行く権利があると思います。見てみてダメだと感じる人もいるかもしれませんが、行ってみること自体は別に良いかと思います。

オープンキャンパスに行ったことで、医師を目指すことになったのですね。

車椅子とか障害を持って職業に就くことに悩む人は多いと思います。私も浪人中に自分に適性のある職業か何か全く見えていない時期がありました。何か仕事をしないと生活していけないし、何かしら社会貢献したいという思いもあったので、いろいろな職業を検討して、その中の1つに医師があったということです。

実際に仕事をされてみて、医師という職業はどうですか。

すごく大変な部分もありますが、その分やりがいもあります。大変な分、返ってきた時は嬉しいです。興味があるだけに、医師になって良かったと思っています。

病気になる前は、スポーツは何かされていましたか。

中学の時に陸上を短期間だけやっていました。運動するのは好きでした。

大学時代にはクラブ活動は何かされていましたか。

弓道部に入りました。

どうして弓道をすることになったのですか。

大学のサークルに入るのも結構悩んで、自分にできることは何だろうと考えて、バイオリンや軽音楽や吹奏楽など色々と見学に行きました。たまたま友達から弓道の例し引きがあるよと誘われ、思い出作りくらいの気持ちで一緒に行ってみたら、とても楽しかったのです。大学の近くの弓道場で車椅子で弓道をしている人がいるという情報があり、その方の話を部活の先輩と師範の先生とで聞きに行き、自分の障害のレベルだったらどうすれば良いかも考えてもらいました。障害あってもなくても、年寄りでも子供でも、肩を並べて競い合えるスポーツですし、そういうところも魅力かなと思いました。

車椅子でも普通の大きな弓を使うのですか。

短い弓もあるようですが、私は普通の弓を使っていました。

今は弓をやっているのですか。

今は引いていません。やりたいとは思いますが、弓道場が近くにないので、機会があれば行きたいと思っています。

いまは何かされていることはありますか。

ジムに通って筋トレをしています。リハビリする時間も取れなくて、足がなまっていく一方なので、30分くらいでも足を動かす時間を頑張って作るようにしています。脳神経内科医は、患者さんの筋力テストをするのですが、全身の筋力を使って患者さんの力に拮抗して引っ張らなければならないので、それが何歳までできるか不安もあります。そのために筋トレをしつつ、将来は将来でいろいろ道があると思うので、どこかのタイミングで勉強したいと思っています。脳神経内科医がいつまでできるかはわかりませんが、医師として何かはできると思っています。

このネットワークに参加されている医師の皆さんのお話の中にも、きっとヒントになる話があるかと思います。本日は、有難うございました。

  
以上(2019年12月収録)