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"夢をつなぐ" Doctor's Network

ドクターWEST医師のインタビュー

まず最初に、医師になろうと考えた理由と時期について、お聞かせください。

父親が内科の開業医で、姉も医学部に進学していたため、子供の頃から医師は身近な職業でした。将来なれたらいいなと漠然と考えていましたが、一方で難しいかなと思っていました。真剣に医師を目指す気持ちを固めたのは、高校生の時です。ありきたりな言い方ですが、父親の姿を見て、医師になりたいと思いました。

ギラン・バレー症候群という病気で視覚に障害が生じたのは、医学部在学中ということですが、当時のことを教えてください。

医学部5回生の5月の大型連休中から、下痢等の胃腸症状が続いて、大型連休後に暫くして、最初は舌が痺れるような感覚があり、歩くのもふわふわした感じで、真っ直ぐ歩けなくなってきました。小学校の時にギラン・バレー症候群になったことがあったので、大学で学生が受診できる外来があり、内科と神経内科の2人の先生の診察を受けました。その時点ではまだ明らかな筋力低下はなかったので、神経内科の先生からは、「もし症状が悪くなったときには入院できるよう準備しておくよ」と言われました。一旦下宿に帰って寝て、次の日の朝起きたら歩けなくなっていました。先輩や同級生に抱えられて病院に行き、即入院となりました。入院した日の夜には呼吸困難となり、人工呼吸器が付けられ、3日目にはICUに移され、瞬きと眼球運動以外はどこも動かなくなってしまいました。

視覚の方はどうだったのでしょうか。

入院する前の日くらいから、キラキラしてちょっと眩しい感じがあって、入院して病室に入った時には、目の前に立っている後輩3人のうち2人しか見えず、視野が欠けていることに気が付きました。そこからは呼吸困難になりICUに入ってしまい、誰ともコミュニケーションが取れなくなりました。周りが見えにくいと感じていましたが、意思伝達ができない状態でした。1か月が経ち、危機的な状況は脱したということで、神経内科の病棟に移り、瞬きでコミュニケーションをとるようになってから、目が悪くなっていることを伝えました。自覚としては、右目はほとんど見えず、左目は真ん中だけ見えているという状態でした。目のことが気になりだしたのは、命の危険のピークが過ぎて落ち着いてからで、それからはすごく悩みだしました。

入院期間はどのくらいだったのですか。

翌年の4月末までなので、約1年です。

最初は話が全くできなかったのでしょうが、多少とも話せるようになったのは、いつ頃でしょうか。

カ行とタ行だけ言えるようになったのが、夏くらいです。9月くらいからは、少しづつ人工呼吸器を外してみるようになって、お正月前には昼間の多くの時間は外せるようになり、夜寝ている時だけを付けるようになりました。年が明けてしばらくして、人工呼吸器は完全に外しました。

人工呼吸器を外したら、話はできるようになったのですか。

昼間の時間帯に外した時点から、少しずつ喋れるようになりました。

今は普通に話せているので、後遺症が残っている感じは全くありませんね。

発声に関しては、後遺症の自覚はないです。

退院した時の状態はどうだったのでしょうか。

まだ首も座っていなかったので、首も支える頭のところまで高さのある車いすを使っていました。小学校の時にギラン・バレー症候群になったことがあり、イメージは分かっていたので、リハビリが大事と思っていました。でも、退院時はまだ歩ける状態ではありませんでした。目の状態は、右目は全く見えておらず、左目は中心が縦5度、左右10度の針穴くらい、文字にすると横に6文字くらいの視野で、曇りガラス越しに見ているような感じでした。

そういう状態で退院した後、自宅で療養されていて、大学に復学したのはいつ頃でしたか。

退院してから1年後の4月です。その1年間は、かなりリハビリに力を注いで、少しでも時間があればリハビリをして、何とか身体を戻して復学を目指したい思いでやってきました。大学側も目のことはある程度は分かっていたので、復学を許可するかどうかは教授会でもかなり話し合いが持たれたことを、後になって聞きました。当時は欠格条項もあったので、「復学させてもそのあと続けられないなら、復学を認めない方が本人のためにも良いのでは」という意見もあったそうです。一方で「本人が復学したいのなら、復学させてあげれば良いのでは」という意見もあり、その時点ではまだ中心が少し見えていたので、「見えている所の視力を使って、どこまでできるかやってみたら良い」という結論になったそうです。

そこまでの厳しい状態だと、復学を考えるのも勇気がいるというか、不安がたくさんあったと思います。それでも復学したいという強い思いを持っていた理由は、何だったのでしょうか。

医師になりたいという気持ちはずっと持っていて、それは変わりなかったのですが、それ以上に、長期間入院をして大学からも離れる中で、それまで普通にあった社会との繋がりがなくなってしまいました。なので、社会との繋がりをまた作りたい、そのためにも働きたいと思いました。働きたいと思った時、目が悪くて今から何の仕事ができるか考えました。マッサージとか鍼灸とかのいわゆる視覚障害の方がされている仕事をイメージしましたが、これだけ身体が動かないと、それも全部できないと思いました。それだったら、医学部に戻る方が可能性はあると考え、医学部に戻りたいと強く思いました。

結果的には、医学部に戻ったからこそ道が開けた、ということですね。ちょうど、医師の欠格条項の見直しが、復学の時期と重なりました。

それがとても幸運だったのです。病気になったことは、すごく運が悪かったと思いますが、時期的なタイミングは、とても幸運だったと思います。復学した年の7月に新聞に欠格条項の改正の記事が出て、それを見たリハビリ室に通われていた年配の方が、「新聞にこんな記事が載っていたよ」と切り抜きを持ってきてくれました。そのことがかなり勇気に繋がりました。

その知らせを聞いて、どう思われましたか。

「目が見えなくても、医師になれる可能性がある。これを何とか手がかりにして、次に繋げていきたい」と思いました。

復学された時の状況ですが、歩行はできたのでしょうか。

学校の通学や構内での移動、臨床実習などは、全部車いすでした。病気になるまで4年間卓球部にいて、キャプテンをしていたこともあり、クラブの人間関係の繋がりが多かったのですが、新しく一緒の学年になった2年後輩の卓球部の男子3人が、クラスアドバイザーの先生に「僕たちがサポートします」と申し出てくれました。実は、復学する少し前の彼らが4回生の講義に出ている頃から、教室にも練習のつもりで午前中だけ行かせてもらっていました。その頃は車いす用のトイレがなかったこともあり、トイレを我慢できる間の時間だけ行くという具合でした。5回生からは実習が始まります。実習の時には小さなグループの3人班を組むのですが、私のほかは卓球部という構成にしてくれて、その2人が1年間の実習の際は全部車いすを押してくれました。もともとサボりやすい2人だったのですが、どちらかは必ずいてくれて、ずっと車いすを押してくれてたおかげで、すべての診療科を回ることができました。

医学部の5年、6年の2年間ですね。車いすは移動の問題ですが、視覚の問題について大学の授業はどうされたのですか。

読むことと書くことができないのが一番の問題でした。視覚障害を補うスキルを学ぶ機会は、医師国家試験が終わるまでは全くなかったので、利用することはありませんでした。5回生で復学した年の7月までは、少し見えている所を頼りに本を読んだり、プリントを見たりしていたのですが、7月にそこも段々見えなくなってきて、7月下旬には完全に見えなくなってしまいました。そのため、5回生の夏休みは完全にうつ状態になってしまい、昼間も寝ていてご飯だけ食べてまた寝るという感じで、ずっと実家で過ごしていました。9月から一体どうしようという状態だったのですが、同級生2人に目が見えなくなってしまったことを打ち明けたら、「僕らがサポートしますから」と言って車いすを押し続けてくれました。

良い後輩達ですね。

気分は鬱々しているのですが、車いすに乗ってしまうと、あとは勝手に押してくれるので、実習は全部参加できました。そうこうしているうちに、少しずつ気持ちも戻ってきました。6回生への進級試験の頃までは、学校側も私の目が完全に見えなくなったことは知らなかったと思います。それでも、目が悪いことは一応伝わってはいるので、臨床の時の画像などは、どういう所見があるかドクターがなるべく言葉で伝えてくれました。ドクターの中には、積極的に車いすを押して、あちこち連れて行ってくれる方もいました。そういう点では、実習は車いすだからできた面があると思います。

手術室にも入るのでしょうね。

手術室では清潔作業はできないですが、不潔の扱いで同じように手術室に入らせていただき、見えはしないもののどんなことをしているか、横にいる学生から教えてもらったりして、雰囲気は体験できました。

講義は聞けば良いのでしょうが、実習はその場に行って見るのが中心ですから、見たことを誰かが話して伝えてくれないと分からないですよね。それを同じチームの2人が後で教えてくれたり、講師の方が口頭で説明してくれたり、周りにいる皆さんが目が見えないことを理解した上で対応してくれたのですね。

そういうことです。メジャーな診療科の実習では3つのチームが合併するので、8人くらいになりますが、そのメンバーの方もサポートしてくれました。

非常に周りの人達の協力があったわけですね。そういう中で、医師の国家試験という最大のハードルがあるわけです。試験に合格するのは相当大変で、テキストもたくさん理解しなければならないと思いますが、少しは見えていた視力が見えなくなってしまって、どうやって勉強されたのですか。

自分にできるようになった唯一のことは、指はまだ不自由でしたが少し動かせるようになったので、小さなカセットレコーダーの録音ボタンと再生や巻き戻しのボタンを押すことでした。父親が買ってきてくれたカセットレコーダーを使って、録音しました。

授業を録音されたのですか。

講義も録音させてもらいましたが、実際、なかなか聴き直す時間がありませんでした。国家試験に関しては、大きく2つの方法でやりました。一つ目は、学生が一般的な勉強をする本や過去問を両親や兄弟、作業療法士の先生などに読んでもらい録音しました。8割方は両親が読んでくれましたが、90分のカセットテープに録音したものが全部で400本くらいになりました。それを下宿でひたすら聞くということです。もう一つは、6回生の国家試験のための勉強会に参加させてもらいました。通常は担当の問題を事前に勉強してきて、皆んなの前で説明して教え合うのですが、私はそれを免除してもらい、皆んなが勉強してきたことを一緒に聞いて、一緒にディスカッションすることを1年間させてもらいました。

大学には自宅から通われたのですか。

大学から10分〜15分くらいの所にあるワンルームのマンションに、病気になる少し前から一人で暮らしていました。退院してからは母親に一緒に住んでもらい、病院に通院していました。このため、父親は実家で一人暮らしとなりました。

大学への通学はどうされていたのですか。

母親が車いすを押して送り迎えをしてくれました。

大学内の移動はどうされましたか。

同級生がサポートしてくれました。

待ち合わせはどうされたのですか。

大体何時にどこというように時間と場所を決めて、待ち合わせました。

携帯電話も普及していなかったから、大変だったですね。

PHSは持っていましたが、しゃべる機能は付いてなかったですね。

ところで、医師の国家試験を受けるか受けないかは、本人が決めれば受験はできたのでしょうか。大学がゴーサインを出さなければ受験できなかったのでしょうか。

そこには、いろいろなことがありました。6回生になって、国家試験が大変だということは頭ではわかっていましたが、特に行動は起こしていませんでした。入院中からお世話になっていた病院のソーシャルワーカーの方から、国家試験の準備はしているのかと聞かれ、していないと答えたら、「8月には特例受験の申し込み方法などが官報に載るので、夏前から準備しておかないといけない」と言われました。その方がアクティブに動いてくださり、目が見えなくてどうやって国家試験が受けられるかの情報を色々な人に問い合わせてくれて、夏休み期間には二人の全盲の方に面会するアポイントも取ってくれました。一人は全盲で初めて弁護士になった京都の竹下義樹弁護士で、もう一人の方は幕張にある障害者職業総合センターの指田忠司さんでした。竹下さんとは京都で、指田さんとは大阪でお会いしました。

どんなお話を聞かれたのですか。

竹下さんからは司法試験の受験をどのようにされたか、指田さんからは他の資格試験でどんな受験方法を採用しているかを聞かせていただきました。その時まで資格試験の準備はしていなかったのですが、全盲でアクティブに色々な活動をされている大先輩がいることは、何よりも勇気に繋がったと思います。お二人それぞれから、視覚障害のある医師がいるという情報をもらいました。厚生省の仕事をされていて既に退職されていた東京の医師と、その方の知り合いの熊本のリハビリテーション科の全盲の医師、栃木の全盲の医師の3名でした。このうちお2人からも色々とお話を伺ったりしたほか、大阪のライトハウスの訓練施設でも話を聞かせていただきました。そうして集めた情報をソーシャルワーカーの方と一緒にまとめてプリントアウトし、欠格条項改正の新聞記事をコピーしたものと一緒に封筒に入れて、教授室のある建物の出口のところで通りかかる教授に片っ端から配りました。そうしたら、クラスアドバイサーの先生から、もうそんなことしなくて良いと言われ、その後に学務課の方の面談があって、「もう心配しなくて大丈夫です。試験の申し込みなどの厚労省とのやり取りは学校がするので、安心して勉強に専念してください」と言ってくださいました。

放っておいても周りがやってくれたわけではなく、気にかけてくれるソーシャルワーカーの方がいて、自分自身も一緒になって動き始めて、それに学校が応えてくれたということですね。

学校側も私が見えていないのは分かっていましたが、詳しい状況までは分かっていませんでした。私自身もどうしたら良いかさっぱり分かっていませんでしたが、最初の情報収集と整理をしてくれたのはソーシャルワーカーの方で、そこから先の国家試験受験の方法などは学務課の担当窓口の方がついてくれて、厚労省とも何度かやり取りをしてくださいました。10月から12月の3か月間は卒業試験が続きました。卒業試験は対面朗読で読み上げて、レコーダーに録音してそれを聞き直して口頭回答するという方法で全部受けました。厚労省から卒業試験はどのようにやったのかと大学が聞かれ、こういう方法で卒業試験をしてその結果を判断に使ったことや、使用したものも説明していただきました。卒業試験の方法が、国家試験の受験方法の参考になりました。更に、国家試験では画像の問題も普通の受験生と同じように出題されることになり、それなら手伝おうと手を挙げてくれた教授、助教授、講師の先生が20人、同じ日に連続して交代で模擬試験をしてくれました。

どんな模擬試験ですか。

画像問題の出題法には3つのパターンがあることを厚労省から示されました。①解釈を伴なわない説明があり、質問は受け付けないパターン、②解釈を伴なわない説明が少しあり、質問に対して解釈を伴わない返答をするパターン、③説明がなく、質問に対して解釈を伴わない返答をするパターンの3つです。これに合わせた模擬練習を20人の先生方がしてくれました。

それは、素晴らしいですね。

本当に有り難かったです。

国家試験の受験には、どのような条件が付いたのですか。

具体的には6つの条件がありました。1点目は、問題内容と問題数は一般受験者と同じ。2点目は、別室受験で試験時間は通常の1.5倍。3点目は、対面朗読で問題を読み、それを録音して聞き直すことは可能。4点目は、漢字などは同音のことがあるので、文字を尋ねることは可能。5点目は、口頭で解答し、マークシートには代筆記入。6点目は、先ほどの画像問題の3つのパターンの出題です。

画像問題では、やはり実際に3パターンの出題があったのですね。

問題数に差はありましたが、3パターンの出題がありました。

そして、合格されたわけですが、その時はどのようなことを思われたでしょうか。

母親は合格発表の張り出しを見るために出かけていました。1人でワンルームの下宿のベッドに座っているところに厚労省の方から電話があり、合格の知らせを聞きました。筋力がないため本当に飛び上がってはいませんが、気持ちは‘やったー’と思いっきり飛び上がりました。

試験に合格した後には、医師免許の取得という次の壁も出て来るのでしょうが、その前に、当時は入局する診療科を決めたのかと思います。当時の臨床研修は、現在のような複数の診療科を回るスーパーローテート方式ではなく、特定の診療科に入局するストレート方式があったわけですが、どの診療科に入局されたのですか。

出身大学の精神科に入局しました。

精神科に進むことを決めたのは、いつ頃ですか。

6回生の年末くらいから各診療科の入局説明会が始まりました。国家試験のことで頭が一杯だったのですが、自分が将来行ける可能性があるのは、やはり精神科かなと考えて、精神科の説明会に行かせてもらいました。スーパーローテートが始まる前年だったので、どこかの科に入局する最後の年だったのですね。

それも先ほど幸運だったと言われた一つの理由ですね。

そうです。

2004年からスーパーローテートになりましたが、そのことでハードルが高くなった面はありますか。

弱視である程度診療科を回れる方は良いのですが、2005年に全盲で医師になられた方の話では、スーパーローテート方式での研修の引受先が決まらず、特例で特定の診療科、例えば精神科だけの研修をした場合は、医師の資格に勤務医はできるが個人開業はできないという制限が付いたそうです。

プライマリケアができないということですかね。

自分が責任者になれないということかと思います。

今でもその制限は変わっていないのですか。

その後は全盲で合格した人がいないので分かりませんが、多分、変わっていないでしょう。

精神科以外の選択肢は、考えませんでしたか。

病気をする前には、この科に行こうと決めている科もなく、外科とか細かい作業をする科は苦手だから多分ないなとか、父親が内科だったので内科の可能性もあるかなと思っていた程度です。実際に進路を考えたときには、自分の状態に照らして仕事ができる可能性が一番あるのはやはり精神科だと考えたのと、もう一つの理由は自分自身がかなり大きな病気をした体験を通して、身体の病気と心の問題は大きく関係していると思い、メンタルに対する関心が高まったことです。

医師免許はいつ下りたのですか。

そもそも医師免許がすぐには下りなかったのです。3月には医師国家試験の合格通知が来たのですが、実際に免許が下りたのは8月でした。

8月まで待たされたのですか。

免許を与えて良いかどうかの面談が8月だったのです。厚労省からの呼び出しがあり、東京の厚労省の建物に8月に行きました。

それまでの間は不安だったでしょうね。

いつ呼ばれるかは示されず、事前に何月何日に来てくださいとの連絡があるとのことでしたので、いつまで待たなくてはいけないのか分かりませんでした。実際に、私の後に全盲で国家試験に合格した二人目の方は、10月まで待たされました。

医師免許が下りるまでの間は、医師の業務はできないわけですよね。

その間は、見学生のような形になります。

面談では、相対的な欠格事由に該当しないかどうかを判断するのですね。どのような面談でしたか。

5人くらいの先生方がいて、それぞれから色々と質問があり、それにお答えするものでした。

今日的な視点で考えると、どういう職場で働くかによって、ずいぶん違いますよね。医師として働けるかどうかは、個人だけ見て分かるものではなく、まさに環境との関係で見なければならないでしょう。大学からも色々と聞いていたのでしょうか。

そこは分からないですが、面談があってから後は早くて、多分3日くらいで免許が下りました。

本当の意味で、医師として働けると思われたのは、その時ですね。

試験に合格した時は凄く嬉しかったのですが、安心したのは医師免許が下りた時でした。

精神科に入局されて、学生時代とは異なり研修医として働く中で、また新たな課題も出てきたと思いますが。

それは沢山ありました。やはり、学生は何だかんだいっても守られている存在です。そもそも入局を受け入れてもらえたことが、有り難かったです。これだけの障害があると、受け入れてくれない科も多いと思いますが、精神科は快く受け入れてくれました。もともと精神科の医師には優しい先生が多いのですが、同期が8人も入局していたので、回診の時などは同期の先生方が代わる代わる車いすを押してくれました。病院からは、サポートしてくれる看護助手さんを一人選任して、私の担当にしてくれました。移動する時などは、その看護助手さんのPHSに連絡すると、少し待つことはありますが、移動のサポートをしてくれました。

研修期間中には、どのようなことをされていたのですか。

普通の研修医がやっていることはできず、自分ができることをやらせてもらっていました。研修医は、普通なら外来で診察医の横でカルテを書いたり、パソコンを打ち込んだり、処方箋を打ち出したりするような補助的な仕事をしながら、知識と経験を積んでいくわけですが、私にはそういう仕事はできないので、外来では患者さんと診察医のやり取りをひたすら聞くことをしました。病棟では、通常は同時期に4人とか5人の患者さんを受け持つことが多いのですが、私の場合は1人か多くても2人の患者さんを担当させてもらいました。研修医に対する講義は、皆んなと同じように聴かせてもらいました。自身の外来は、入院で担当した患者さんの退院後の診察をする程度でした。最初のうちは、そういう感じでした。

研修医としての2年間を含め、大学には何年間おられたのですか。

6年間です。

最初の研修医の2年間が終わってからは、どうなったのでしょうか。

3年目からも、その形自体は大きく変わりませんが、それに加えて外来でできることは何かないかということで、性同一性障害の専門外来をされていた先生からお声掛けいただき、その専門外来の診察を少し担当させていただきました。そこは画像もあまり関係なく、話を聞いてまとめるようなところが多いので、外来業務の経験を積ませていただきました。

精神科には、統合失調症、うつ病、不安症など様々な患者さんが受診されますが、ご自分の障害の状態を考えた時に、やりにくいものとやりやすいものがあるかと思います。性同一性障害というのは、比較的やりやすいものなのでしょうか。

今のクリニックに来てからは経験知も増えていますが、当時としては多分、疾患の鑑別が課題になったと思います。その点では、画像診断などが必要なものに比べ、性同一性障害はある意味特殊な外来で、この病気の診断を受けたいと患者本人が言ってくる点に特徴があります。

鑑別の必要性がそれほどないということですか。

何か他の疾患が混じっていたら、それを鑑別しなければいけないのですが、性同一性障害の場合は、何も分からないところから鑑別するものではないということです。話をたくさん聞いて書類にまとめるところも、私には向いていたと思います。

患者本人から自分の思いを聞いて、それを整理してあげる外来なのですね。

生活史なども整理します。それに加えて、性同一性障害に関する診断と治療のガイドラインでは、二人の精神科医の意見が一致することが要件とされているので、自分一人で診断するわけではなく、上司の先生と二人の診断で確定することも良かった点です。そこから先のホルモン療法や手術療法をしていく時も、環境が整っているか、その治療に問題がない状態かということについて話し合う機会があるので、そのために診察をして書類を作ったりしました。

3年目から6年目までの4年間は、性同一性障害の専門外来を担当されていたのですか。

それをメインにしていました。

そこから今のクリニックに移られたのですね。

大学病院では、凄く経験をさせてもらえました。ただ、大学病院で働き続けることには、色々な課題もあって、研修医が終わって4年が過ぎた時点で今のクリニックに移りました。

精神科医として現在はクリニックで働かれていますが、診察について職場のサポートはありますか。

診療室に医療事務の資格を持つスタッフが一人控えていて、処方箋の打ち込み、カルテの処理、書類やデータの読み上げなどを手伝ってくれています。

スタッフの方のサポート内容について、もう少し教えてください。

具体的には、以下のようなサポートです。
(1) 事前の患者情報、問診票、心理検査、血液検査などの情報提供
(2) 予約管理、処方箋入力、紹介状・診断書入力、読み上げ確認
(3) 患者の呼び込み、案内、他診療科との連携調整
(4) カルテ記載、音声パソコンで作成したカルテ内容の貼り付け
(5) 説明用の便利なボードの作成、パンフレットや資料の説明
(6) 必要な医療情報の検索、読み上げ

説明用のボードというのは、どんなものなのでしょうか。

これは自分の中では重宝しているものです。例えば抗不安薬とか睡眠薬にも色々なタイプがあるので、効き目の長さや強さを表にした紙をプラスチックで挟んでボードにしたものを作り、それで説明するようにしています。それ以外にも、抗うつ薬の種類や特徴、認知についての説明、強迫性障害の悪循環など表や図で表したものをボードで作り、それらを使いながら説明しています。

患者さんにとっても理解しやすいですね。

説明する内容によってはプリントもあるので、お渡しすることもできます。それ以外にも2か月に1回クリニック通信として院内やホームページ用に書いている文章があり、それをスタッフがプリントしてくれたものを説明する際に渡したりします。そうすると説明内容が伝わりやすく、診察時間も短縮できます。

ボードに凹凸があれば、指差して説明することもできますが。

ここら辺と患者さんに説明して、あー載ってますと患者さんに指差してもらう方が良いかと思います。患者さんが見ているかどうか、それで分かる面もあります。

読み上げソフトは利用していますか。

多くの病院で勤務する医師やコメディカルの方にとっては、セキュリティの関係で電子カルテのパソコンに音声ソフトをインストールできないという問題があります。

今のクリニックでもできないのですか。

できないのですが、スタッフの方が全部やってくれているので、困ってはいません。今のクリニックは、処方箋や予約システム、会計は電子化されていますが、カルテ本体はまだ紙なので、パソコンで打ったものをプリントアウトして貼っています。

ところで、医療情報や国内外の論文の情報には、どうやってアクセスしていますか。デイジー(DAISY アクセシブルな情報システム)なども使われるのでしょうか。

デイジーは個人的な楽しみで使っているだけで、仕事にはほとんど使っていません。仕事に関係するものとしては、たまにアンガーマネジメントなど一般向けの本を読むのに使います。パブメド(PubMed 米国の医学文献データベース)の検索の研修には一度行きましたが、その後は特に使っていません。

学術論文については、日本精神神経学会が毎月出している学会誌のデータを「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」がもらい、ボランティアの方に読みやすい形に修正してもらったものを、学会に加入している人で希望のある方に情報共有しています。

DVD版の「今日の治療指針」という医学書籍があるそうですが。

それは毎年買って、よく使っています。

音声で聴けるようになっているのですか。

画像とかは無理ですが、テキスト部分は音声ソフトとの相性もあって、すぐには読めないので、読みたいところだけメモ帳に貼り付けて読めるようにしています。

苦労されているのですね。

自分が普段使う情報、特に薬の情報などは、事前に全部メモ帳に貼り付けて、いつでも調べやすいようにしています。

それは自分で作られるのですか。

DVDを購入して、画面上ならクリッククリックで行けるところを、フォルダーに分けて、そのフォルダーの中に貼り付けたメモ帳を作ることを休みの日にやっています。

薬の情報は特に大事ですね。

薬は年々情報が変わるので、毎年チェックしています。

「今日の治療指針」というのは、精神科に限らず医師の皆さんはよく読まれているものですか。

大学病院だと大学が購入して、あちこちのパソコンで調べられるようにしています。

今は何科で働かれているのですか。

心療内科と精神科を標榜しています。

大学では性同一性障害の専門外来でしたが、このクリニックでも性同一性障害の患者さんを診ているのでしょうか。

ここでは診ていません。

どんな患者さんを診ているのですか。

ここはペインクリニックなので、半分くらいはペインと心療内科の両方にかかっている方です。痛みを主訴に受診されますが、精神科的な課題を抱えています。身体症状症と言って、不安やイライラ、怒りなどの気分が痛みに変わる症状で、どこに行っても異常がないと言われるような方です。

いわゆる不定愁訴ですね。

そうですね。だから一般の診療科では、心の問題だと言われます。でも感じている痛みは、本当にリアルな痛みです。

痛みはどこの痛みでしょうか。肩や腰の痛みとか、片頭痛といったものですか。

どこでもありますが、多いのは口が痛い、舌が痛い、胸とか背中が痛いとかで、首、肩、後頭部の痛みもありますね。

先ほど鑑別診断の話がありましたが、ここに来る前に内科などを受診していて、「内科的な問題はなさそうで、むしろ心療内科に診てもらった方が良い」と言われて紹介されて来られる方ですか。

ペインクリニックの心療内科を受診される段階で、あちこちの医療機関を回り回って来ている方です。どこに行っても、治療しても良くならないという方なので、その意味では鑑別が終わっているようなものです。

心療内科に関わるスタッフは何人くらいですか。

診療内科に関わるスタッフは、専属2人と兼務1人です。

クリニックに来られる患者さんは、最初に心療内科で診察するのですか。

心療内科に来られる方のうち、半分はペインとの併診ですが、半分は心療内科だけにかかっている方で、うつとかパニック障害の方がほとんどです。

そうすると、大学の専門外来のように限られた患者さんではないので、身体疾患についての鑑別は終わっているけれど、心の問題については幅広い患者さんが対象ということですね。

だいぶ経験させてもらっていると思います。

毎日の診療の中で心がけていることや、工夫していることがあれば、教えてください。

診療をしやすくする工夫としては、先ほどお話ししたように、ボードやプリントを作って活用しています。目が不自由なことはオープンにしているので、初診時に挨拶をする際に「目が不自由なので、色々お話を聞かせてください」と最初に伝えます。

患者さんは驚かれますか。

結構、知っている方が多いようです。点字毎日新聞などに私の記事が載ったりすると、広報の担当者がクリニックの待合室に貼ってくれたりするので、それで知っている方も多いのかと思います。ペインに来た患者さんだと知らない方もいますが、顔が見えていないので分かりませんが、別にそんなに驚かれている感じはないですね。それと、スタッフにサポートしてもらって診察しているので、「スタッフが同席しますが、ご了承ください」ということを最初に伝えます。

どんな服装か、顔つきがどうかといった患者さんの様子については、スタッフが伝えてくれるのですか。

伝えてくれます。

それは患者さんがいる場ですか。

患者さんが退室した後です。ただ、患者さんが「ここが痛い」と言って指差しているのは見えませんから、そういう時はスタッフが覗き込んで、どこを指していますと教えてくれます。「ここにブツブツができています」と患者さんが言えば、どんなブツブツかスタッフに見てもらうこともあります。服装が乱れているとか、太ってきているとか、痩せてきているとか、変化があった時にはスタッフが後で教えてくれます。

声には気持ちが出るものだと思いますが、会話の中でその人の精神状態がどんな状況か、私らが感じる以上に分かるようにも思いますが、実際のところどうでしょうか。

私の個人的なイメージとしては、多分、目が見えていても感じられるのと同じくらいに感じていると思います。凄く繊細に感じているわけではないけれども、少なくとも同じレベルでは感じていると思います。逆に、目が見えていないので、外れている可能性はあるかもしれませんが、当て図っぽうでも「何か今日はいつもより元気ないような気がするけど、何かあった?」と言って、見えてないのを良いことに話を振ってみることはあります。

他の情報に紛れてしまうことが、情報が限られることで、逆に隠れていたものが見えてくるように、患者さんが納得してしまう部分があるのですね。

耳でしか聞いていないから、その限りではそんな感じがするということを伝え、本当にそうかどうかはその後の話で分かるみたいなところがあります。「分かって言っているわけではなく、そんな気がするのだけれど」と伝えられます。

そういうことも言いやすいのでしょうね。見えていなことで、患者さんが自分を出しやすいとか、話しやすいという面はあるでしょうか。

見た目を気にしている方はそうかもしれません。自分がどう見えるかを気にすることに関しては、別に見えていないので心配しなくて良いという感じですね。性同一性障害の方だと、心で望む性に見られているかを気にする方もいますから。

視覚障害のある医師が働く上で、便利な道具はありますか。

いかに新しいITを使いこなしていくかだと思います。私が医師になった頃は音声パソコンが一番新しいツールで、パソコンに読み上げソフトをインストールすることが最新の対応でした。今はもうアイフォンやスマートフォンがあるので、便利なアプリをどう使いこなしていくかが一番大切かと思います。

こんなの知っていると伝えたいような優れものはありますか。

凄く高価で、日常生活用具の給付対象には一部しかなっていないのですが、イスラエル製の「オーカム マイ アイ」という、メガネの横に磁石で取り付けるタイプの製品で、例えば印刷された文書の見たい場所を指で指すと写真を撮影し、2〜3秒で読み上げてくれるものがあります。

それは日本でも使われているのですか。

2年前から日本でも発売されています。私はまだ使っていないのですが、この前初めてライトハウス情報文化センターでお試しさせていただきました。予め顔写真を登録しておくと、向かいに座った人が誰なのかも教えてくれます。市町村によって対応は異なりますが、購入費の一部を日常生活用具の給付費として助成する自治体が増えてきました。それでも高額の自己負担が必要ですが、ここまで読めるのかと思うほど、とても賢かったです。

読んだものは耳で聞くわけですね。

メガネにつけた装置が耳の近くで喋ってくれます。無線でイヤホンに飛ばすことも可能です。

普通のスマホにアプリをインストールして、服の色が何色だとか教えてくれるものもあるようですが。

それも体験させてもらいましたが、便利でした。スマホのカメラ機能を使って、文章も読んでくれます。

もうあと2〜3年も経つと、そういうのが普通になっているかもしれませんね。

これからは、多分こういう系統のものが進化していくと思います。

診療の現場でも使えそうですか。

例えば手書きの紹介状では難しいでしょうが、パソコンで作成されたものなら読んでくれそうな感じです。実際に持ってみないと、どれだけ使えるかわからないのですが、電子カルテの場合には、画面上の同じ場所を指差したら読んでくれるようになるかもしれません。でも、スタッフが読んでくれる時は必要なところだけ読んでくれますが、機械だと不要なところまで全部読む可能性がありますね。

効率的に読めることが、実用には必要だということですね。

仕事にどこまで使えるかは、読みたいところだけを読むこととか、時間的なこととか、手書きかどうかにもよるかと思います。ただ、目が見えないことでそもそも生活が困るので、この装置は見た方向に文字があれば読んでくれるので、色々な情報が入って来ると思います。

こういう面でも、医療の現場が変わって来ると良いですね。話題は変わりますが、障害者権利条約が提唱した「合理的配慮」という考え方があります。今は、働いている障害のある方に対して、事業主は合理的配慮をすることが法律で義務付けられており、以前と比べると事業主も対応しようという感じになってきていると思います。現状では、なかなか対応してくれていない職場で働かれている方もいると思いますが、合理的配慮を職場に求めていく際に、どういう点に留意すると良いのか、これまでの経験で何かアドバイスはありますか。

ある意味、医師は医療現場の中では一番守られている立場かと思います。視覚障害があることに対しては、どういう方法をとれば自分でできるのか、自分の中でちゃんと整理できているかどうかが大切です。ここまでは自分でできるが、ここはこういうサポートがあったらできる、ここはできませんということの整理です。ただ、ここまではできるけども、ここはできませんという境目自体が、視覚障害を補うスキルとかテクニックにより変わってくるので、やはり情報を収集することが大事だと思います。

先ほどのような機器も含めてですね。

これを使ったらこれのできる可能性が上がるというものが、もしかしたらあるかもしれません。しかし、職場にはそういう情報がないので、まずは自分の障害の状況を正しく知って、それを補える方法を整理した上で、職場と話し合うのが良いでしょう。

障害による不便さを補うテクノロジーや機器について、今はどのようなところから情報を集めていますか。

ライトハウスも一つですし、実際に仕事の現場で使えるかとなると、当事者の集まりからの情報が有効ですね。「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」もその一つですし、一般就労だと「タートルの会」と繫がりをつくるのも良いでしょう。

「タートルの会」の情報発信はホームページですか。

ホームページもあります。また、定期的に年4回くらいの集まりもあります。特にIT関係の事務職の方も多いので、学べるところへの繫がりができたりします。公的な機関で視覚障害者にパソコンの指導をしてくれるところもあります。

そういう中で便利な機器の情報も得られるわけですね。

実際には、使ってみないと分からないものも多く、他の人がどうしているかは参考になります。

体験に基づく情報には、製品カタログでは得られないものがありますね。

合理的配慮を求める上では、目が不自由なことを自分の中で受け入れられているかどうかも、重要なポイントです。職場でオープンにするのに勇気が要るということも聞きます。

それは弱視の方の場合ですか。

弱視の方の場合には、オープンにすることで虐げられるのではないか、仕事ができなくなるのではないかと心配されていて、そのハードルは大きいということです。

「視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)」には、現在、医師は何名参加されていますか。

現職の医師は15名います。

どのような診療科で働かれていますか。

精神科が7名で最も多く、他にリハビリテーション科、総合診療科、内科、小児科、眼科、漢方内科がそれぞれ1名ずついます。その他に老人ホーム・盲学校理療科講師・大学非常勤講師を掛け持ちされている方が1名、老健施設で働かれている方が1名です。

視覚障害の程度はどうでしょうか。

ロービジョン(弱視)から全盲まで幅広いです。

全盲の医師は何名でしょうか。

8名います。

医師になってから病気や怪我で視覚障害になられる方もいますが、こうした中途障害の方の中には、弱視から徐々に視力が低下していく方もいると思います。そのような方に対して、将来に向けて何を準備すれば良いか、何かアドバイスがあればお願いします。合わせて、障害の状態によっては、それまでやってきた診療科ができなくなることもあると思います。そのような時にこの診療科を考えてみてはというものがあれば、お願いします。

視覚障害をもった年齢と、どのくらいの見え方かといった障害の程度、病気が進行する可能性が高いのかどうか、働かれている診療科の仕事の内容、職場の状況、そういったことで大分変わってくると思います。例えば、50歳、60歳代で見えにくくなってきているなら、いかに今の仕事で少しでも長く働き続けられるかが目標になるかもしれません。30歳代で家族もいるということであれば、これからも医師として働いていくためには、もしかしたら診療科を変えることも選択肢になるかもしれません。また、これ以上は障害の程度が進まない場合は、今の状態といかに付き合っていくかが課題となりますが、網膜色素変性症のように進行性で見えなくなる可能性がある場合は、どうするかの判断が迫られるかと思います。

具体的な事例もありますか。

視覚障害が進行する中で元の科から精神科に転科された先生、療養型リハビリテーション病院に転職された先生、漢方内科医になられた先生がいます。
職場環境にも色々あると思いますが、もし診療科を変えることも考えるのであれば、とことん目が悪くなってからでは大変なので、少し早めに準備されることをお勧めします。そういう可能性がある方は、まだ普通に仕事ができている頃から、早めにゆいまーるやタートルの会などに繋がりを持たれて、どういうタイミングで診療科を変更すると良いか、色々と情報を集められるのがいいように思います。便利なアプリや機械についても、完全に目が悪くなってからではなく、まだ見える時期に色々なことを知って、練習を開始しておくと技術の習得がスムーズかと思います。

もう一つ、視覚障害のある学生で医師を目指す方に対しても、何かアドバイスはありますか。ご自身は医学部在学中に視力を失われましたが、そもそも全盲で医学部に入られている学生はいるでしょうか。

私が知る限りではいないです。

医学部への入学を受け入れた以上、最終的には医師になれるよう教育していく必要が大学にはありますが、現状では大学の側に全盲の学生に対するスキルや経験も不足しているということでしょうか。弱視で医師を目指して医学部に進まれる方はいますか。

弱視の学生はいると思います。私がイメージするのは、いきなり全盲の方が医学部の壁を突き破るのではなく、弱視の方がたくさん医学部に進んでいくことで、視覚障害の方の医学部への門戸が広がっていくことです。弱視の方にも見え方は色々あるので、この場合にはこうして対応することができたという経験や情報を数多く残る形で蓄積し、大学側もこういう見え方の場合にはどう対処をすれば良いかが分かり、そのことで必ず道は広がっていくと思います。

現状では全盲の方は難しいけれども、弱視の方が道を開いていく中で、全盲の方にも門戸が広がることを期待したいということですね。本日は、とても有意義なお話を聞くことができました。有難うございました。

(2020年3月収録)